僕の居た所は概ね学校と呼ばれる場所でした。
現代のこの国に住む人間は大抵がその様な感じだった事でしょう。

僕は小学校が嫌いでした。
走るのが嫌いでしたし周りの友達は何を考えているのか解らなかったのです。ただ先生の多くには好感を抱いていましたし、知らない事を知るのは楽しかったので中学校へ行きました。
僕は中学校が嫌いでした。
小学校で一度やった事を少し変えてやるばかりの授業全般は当然詰まらなく感じましたし、理由の無いルールを強制されるのと、それを強制する先生が嫌いだったのです。ですが友達は好きでしたので高校へ行きました。
僕は高校が大嫌いでした。
そもそも同じ事を二度繰り返しただけで飽きた人間が、三度目に耐えられる訳が無かったのです。先生は馬鹿みたいで嫌いでした。友達も殆どが馬鹿みたいでした。
僕の居場所は少しの友達と、人の居ない図書室ばかりだったのです。



僕が彼に出会ったのは、丁度教室を脱け出して図書室へ向かう時でした。
静まり返った廊下は月面程に味気無く、外に広がる日常の景色がまるで僕等とは無関係といった顔をしていて、思わず窓から飛び出してしまいたくなる様でした。
外を照らす柔らかな日差しに釣られふらふらと片足を踏み出した僕はふと空を見上げて、屋上から驚く程の存在感を放つ彼を見つけたのです。
僕は好奇心から彼の所へと向かいました。
屋上に僕が到着しても彼は動じる事無くその存在感を現わにしていました。
彼は何処までも学舎に似つかわしく無く先生が見たなら非難の声を上げた事でしょう。
また彼を呼び込んだ人間は確実に追求され処置が取られた事でしょう。彼の周りに居た人々は動揺し、彼の姿を隠そうとしていました。
「何をしているんだい?」
「別に、何でもねぇよ」
「それは?」
「何でもねぇって言ってるだろ、煩ぇな!」
彼の周りに居る人々は僕の事を不審そうに威嚇していましたが、今が授業中である事を思い出し共犯にしてしまおうと考えたようで、僕に彼の手を取らせました。
彼は独特な芳しい香を身に纏い尊大に僕を迎えました。僕はそこにある不健康な雰囲気に流されるまま、それに口付けたのです。

彼の存在はただほろ苦く、それで居て気持ちを落ち着かせる様でした。


僕は結果的に、彼の下僕となりました。
彼の残り香は僕から不要な物を取り払い、近しい物を引き寄せました。そこに含まれる僅かな背徳感は退屈に弛みきった神経を擽りました。
彼の存在は僕にとってあまりに心地好かったのです。あの時に出会った彼等とは彼を挟んだ知人として密かに遊ぶ事もありました。
僕等は彼の為に、気付けば食事を抜く程の犠牲を払っていたのでした。実際高校生という身分に彼の存在は重過ぎたのです。しかしそれすらもが僕等にとっては愉悦の一つでした。
彼は僕等を見返る事はありませんでした。ただいつでも平然として変わる事無く、与えるべき対価を持たなければ何処とも無く消えてしまいました。
彼に再び会おうという時には人通りの少ない町角や胡散臭げな老人に、対価を持って声を掛けなければいけませんでした。



彼との関係を謳歌していたある日の事でした。それは後に思えば運命の日でした。
僕と秘密を共有する仲間の中に、見覚えの無い少女が混ざっていたのです。彼女は仲間の誰かの女友達だと仲間が教えてくれました。
彼女の陽性の雰囲気を持ちながらも当たり前の様に男集団に入り込み、かと言って男勝りの気も無くしっかり女子を主張している姿が僕にはとてもだらしなく思えました。
仲間の中でも困惑している様子が見え、逆に妙な馴れ馴れしさで彼女に声をかける様子が見えました。彼女の存在は、少なくとも僕にしてみれば異物でした。
馴れ馴れしくしていた一人は、此れは所謂不良の集まりである事や普段の事をやや誇張気味に彼女へ話しました。そうして此れからの事は秘密にするよう言いました。
彼女はその怪しげな物言いに興味を持ったようで、媚びた笑いを友人らしい誰かに向けました。
そうして、妙に改まった空気の中に彼は引き出されたのです。

彼は異物である少女に頓着する事無く次々と伸びる手に身を委ね、口付けを受け入れました。
独特の香りを匂わせて存在を主張する彼は、何処までも彼その物でした。彼の普遍的な姿に僕は漸くほっと気持ちを緩めました。

「…何これ」

突如聞こえた声は、低く、固いものでした。
彼の存在に現を抜かしていた僕達は、眉間に皺を寄せ嫌悪を露わにした少女の姿にただ呆然としました。
「気分が悪い。帰る」
少女は今までの甘ったるさを欠片も残さず傲慢な態度で立ち上がると、友人らしき誰かの制止も振り切って出口に向かって行きました。

「こんな事で悪ぶって、馬鹿みたい!」

僕達は少女が居なくなった後も暫くその場でお互いを取り繕う様に彼と戯れ、喋り続けていましたが、空想の膜を引き千切られた空しさは決して消えませんでした。



僕はその日以降、彼と会うのを止めました。







高校を無事に卒業した僕は、詰まらないと言いながらも結局当たり前に大学へと進学し、友人という言葉の実の薄さを学びながら大量の知人を作り、四年間を過ごしておよそ今までの専門的な勉強が何だったのかと思われる適当な会社に勤めました。
馴染まぬ土地で一人暮らしを始め、その気楽さと孤独さを同時に味わいながら、何という気持ちが湧くでも無く日々一日を消費していきました。
成人を幾つかも過ぎ、全ての事に自己責任が認められても、僕は彼に会おうと思いませんでした。
彼の事等忘れていたというのが正しかったかも知れません。
丁度、彼の様な存在が世に否定され始めていた事もあったのでしょう。

休日のある日、僕は嘗て過ごしていた家へ忘れ物を取りに行こうと思い立ちました。
懐かしい路線に乗る内に、下らなく醜く思えていた過去の出来事がごく冷静に思い出され、過去の自分と現在の自分が別人である事を今更ながら知ったのでした。
目的の駅で下車すると、大した時間を離れていたつもりは無いのに見知らぬ店や建物があちこちにあって、特にその変化が著しい所は初めて訪れた土地の様でした。

疎外感と既視感と思い出が混ざった奇妙な気持ちの中、道を進み続けた僕は廃れ掛けた店を見つけて足を止めました。
そこは高校生であった頃の僕が彼に会う為に利用していた店でした。

社会人になった僕が、高校生であった僕を否定するつもりはありません。あの時の空しさは確かに本物でしたし、耐えられた物ではありませんでした。
けれども、今にして思えば彼との逢瀬は妙に背伸びしたものだったのでしょう。
僕は彼によって様々な物を得、また捨てる事が出来ました。けれどもあの時の僕は彼を正しく理解して居ませんでしたし、そもそも知ろうとすらしていませんでした。
彼がそういうものであったとしても、僕は彼に出会った僕という状況を楽しんでいただけであり、彼という存在を正確に楽しんでいた訳では無かったのです。

廃れ掛けた店の中に僕と話した老人は居らず、活気のある中年位の男が座っていました。
店の内装自体も変更中といった様子で、彼達が存在していたスペースには彼達以外のものが居座っていました。
どうやら店主であったらしい男に声をかけると、改装をして新しく、もっと便利な店にするのだと笑っていました。

店を出て外側をぐるりと眺めてみた時、僕は漸くそこに彼を見つけたのです。
僕が彼に興味を失っている間にも、彼等はひっそりと、ひっそりと存在価値を貶められて行ったのでしょう。
店については居るものの、路地に隠された彼は埋もれた様にも見えました。
排気ガスにでも汚されたのでしょう、煤けて何処か草臥れた風合の姿は別の意味で近寄りがたく思えました。
僕の戸惑いを知ってか知らずか、堕ちた様子の彼はそれでも嘗てと変わらず無機質で背徳的でした。


思わず伸ばした僕の手を、彼は昔と同じく尊大に受け入れ、口付けによりあの独特な香りと存在感を吐き出したのでした。

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