兎の皮から出来たウサギの帽子をいつでも被っている彼こそイカレていると思えるのだが、三百六十度変わった世界の中では自分の方がイカレているらしい。
昔はお前も真っ当だったのになぁと溜息を吐いても、結局そんな人間を温かいベッドに寝かせ面倒見ている辺りイカレてようが何だろうが人が良いのに違いは無い。


頭がおかしいらしいサイトーは、今日も布団の中から世界を見つめる。
空は灰色で、所々に青が混じる。飛び立つ鳥は異常なまでに逞しく電線に止まっては左右の電柱を激しく揺らしていた。あれをここでは鴉と呼ぶらしい。
地面では忙しそうに小鳥が走り回っている。鳥と言ったが空に羽ばたく気配は無い。土そのものがうねって見える程の数ある糸蚯蚓を啄んでは飲み込んでいた。

サイトーの知っている世界はもう少し穏やかな動物に満ちていた気がする。

相変わらずの慣れない視界にぽかんとしていると、重たい音を立てて鉄製の玄関戸が開いた。
あまりにも頑丈そうな扉に、いつだったかサイトーは閉じ込められている様な気持ちになると彼に伝えたがそれに対して彼は「蟻が入って来るだろう」と心配そうに答えたのだった。

「ただいま、サイトー。元気にしてた?少しはマトモになったか?」
「おかえり、ヨシオ」

今日も掴み所が無くふわふわとしたウサギの帽子を被っている。防寒対策にしては冗談のような作りをしているとサイトーは常々思う。何故ヨシオはわざわざ剥製化した耳の部分を帽子にくっつけているのだろう。

「丁度家に帰る途中でさぁ、ミッチェに会ったんだけどアイツ痴話喧嘩してて怖ぇのなんの。あのままじゃまた相手殺すよ」
「この前はハイヒールの踵で突き殺したんだったか?」
「今度はブランドのミニバッグで殴殺だ」

警察というシステムは大分前に廃れたのだと言う。元々人が人を裁くのに公平である等無理な話だったのだ。それだったら自分自身で物事を解決していった方が怨恨も残らないし速やかに終わる。
サイトーが昔から知っているミッチェも男に騙され易い人間だったがこの世界でもその性質は変わらなかったらしい。今はただ感情のまま殺人魔と化している。
ヒールで目玉越しに脳みそを抉られた男も、容量が少ない癖に馬鹿みたいに作りが良くて冗談のように固い女鞄の角で青痣まみれになっている男も、尻軽そうなナリに誘われた結果なのだから人生を諦めるのも仕方ない事だ。

「それで、お前は何して来たんだ?」
「勿論お仕事に決まってるだろ」

警察が居なくて人を殺しても捕まらないのであれば世の中は無法地帯となる、そんな風に言った評論家がサイトーの知る世界には居たが、現実になってみれば然程世界は乱れなかった。やれば即座にやり返されるのだ。冗談で済む優しさが存在しないとなれば人間慎重にもなる。
ヨシオが言う「お仕事」とはコンビニのアルバイトの事で、強盗に押し入られるなんて話が良く聞かれる場所だったがサイトーにヨシオがそんな話題を振った事は無かった。

「これ、お土産」
「何だ、これ」

手渡された開封済みの箱をひっくり返すと、中から安っぽい、子供が好みそうな作りの小袋が出てきた。薄桃色の生地に赤い糸で「えんむすび」と刺繍してある。改めて箱を見てみると、頭の大きさと目のサイズがあまり合っていない少女のキャラクターが鞄を指しつつ「友情、愛情全部繋ぎ止めておこう」と笑っていた。

「オマケだけど、良いんじゃねぇ?これ以上可笑しくならないように祈っとけば」

そう言うヨシオの口からは甘いイチゴガムの匂いが零れていた。


ガンガン、ガン。


鉄の扉は叩くと結構な音がする。なのでこの世界には呼び鈴が必須なのだ。
ヨシオの家にも当然呼び鈴は着いているのだが、突然の訪問者は鈴を鳴らす事を知らないようだ。

「………!」
「うるせぇー!」

ヨシオが慌てて扉を開けると同時に隙間から黒いエナメルのミニバッグが飛び込んできた。勢いに乗って人間がヨシオにぶつかる。

「うわぁ」
「ヨシオ!!」

予測はついた物の状況についていけないサイトーの顔に何かが付着する。ひっくり返ってサイトーを振り返ったヨシオが絶望的な顔をした。

「サイトー、血塗れになってる!」
「えっ?」
「ヨシオ、聞いて!酷いのよ」
「取り敢えず落ち着けよ、ミッチェ!」

驚いている隙に乗りかかられたヨシオが金髪の女を引き剥がす。ミッチェはなおもヨシオの胸元に顔を擦り付けていたが後ろ髪を引っ張られて漸く我に返った。

「……ごめんなさい、ヨシオ」
「良いからどけって」
「はい」

立ち上がったミッチェは乱れた髪に指を突っ込み丁寧に梳いた。解放されたヨシオがヨロヨロと、それでも扉を閉めに行く。

「相変わらずだな、ミッチェは」
「あら、こんにちは、サイトー。凄い顔ね」
「多分お前のせいだと思うよ」

ミッチェの左手にぶら下がったミニバッグは角がひしゃげてべっとりと濡れていた。ヨシオが見たと言う凶行で使われたのはこれらしい。
ミッチェに差し出されたハンカチでサイトーが顔を擦ると案の定、血液が着いていた。

「サイトー、それじゃ奇麗にならない」

ヨシオはサイトーからミッチェのハンカチを取り上げると台所へ行ってしまった。ベッドの部屋にミッチェとサイトーが残される。

「ヨシオから聞いたよ。男と喧嘩したんだって?」
「え、ヨシオったら見てたの!?」
「通りかかったらしいよ」
「まぁ!…ヨシオったら人でなしね」
「ミッチェは怪我していないんだろう?だったら良いじゃないか」
「結果だけ見たからそんな事を言うのよ」
「悪いけどミッチェ、君の男を殴る姿を見てはそう助けに入れるものじゃない」
「慰めてくれる位、良いじゃない」

ミッチェがベッドに腰かける。
空は何時の間にか暗くなり、星一つ見えない夜が近付いていた。

「サイトー、これで顔拭け」
「悪い」
「悪いのはミッチェ」
「酷い男ね、ヨシオって」
「何言ってるんだよミッチェ…。あ、ハンカチ結構汚れてるからもう使えないかも」
「ほら、やっぱり」

発電所が民営になってから電気の値段は恐ろしい程高くなっている。アルバイターで余計な人間を一人養うヨシオの家計状況では冷蔵庫を使うだけで一杯一杯だ。見る見る内に室内が闇に消えて行くも蛍光灯が光る事は無い。
ミッチェが血塗れのミニバッグからライターを出してたどたどしい明かりを灯す。

「ヨシオも火を点けてよ」
「家に火の出る物なんて無ぇよ。今はコンロだって止まってるんだ」
「サイトーは?」
「寝たきりだし」
「語弊を感じるがその通り」
「詰らないわね」
「酷いの次は詰らない?」

ライターの火を囲み、いつしか彼等は笑い出した。
ミッチェとヨシオ、サイトーが揃うといつもこんな風になる。


頭のおかしいらしいサイトーは、この世界のおかしさを恐ろしく思う。
何故ならサイトーの知っている世界から見て、この世界は限りなく終りに近い姿に思えるのだ。何日過ごそうがこの世界と自分の知る世界が重ならないサイトーにとっても、それは同じ事だ。

けれどもサイトーは思う。
おかしな世界で、おかしくなった友達二人が居て、自分こそがおかしいのだと言われる、そんな状況ですら笑う事が出来るのであれば、おかしかろうが何だろうが構わないのでは無いか、と。

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