散歩のつもりで歩いて来たものの、今日はあまりに風が強かった。
ゴウゴウと絶え間なく吹き付けるそれに、早々草臥れてしまった私は陰を求めてこの建物に立ち寄ったのである。
遠目には立派に見えたから、一杯茶でも、と思っていたのだが近付くにつれこれが放棄された建物である事が察された。
通り道こそあるものの、あちこち破って雑草が蔓延っている。
この先に建物は見当たらないし、ここまで来てしまっていた。
私は仕方なしにそのまま、眼前まで近付いたその建物の中へ入った。
そこは正しく海辺の廃墟であった。
天井と床板には穴が開いており、覗きこめば海が見える。
当たり前のように窓は割れていて、四方八方から潮風が入り込んでくる。お陰で妙に明るく、空気は清浄であった。
コンクリートが剥き出しになった壁は風雨ですっかり黒く汚れ、苔さえ生えている。
想像したより不愉快な場所ではなかった。しかし長居したい所でもない。
今にも崩れる、という程の破損ではないもののいつ何が起きても可笑しくはない程度には壊れているし、無鉄砲に探索するような若さはなかった。
また腰を落ち着けられるような所もない。
少ししたら外に出よう、そう思いながら私は風の当たらない位置に移動した。
置き去りにされたらしい大型の家具には埃と鳥のはく製が飾ってある。
年代物らしきそれ等は相応の場所にさえ持って行けば金銭に替えられたのではないかと思われたが、そも建物や土地が一資産なのである。
ややこしい話を抜きにしても、持ち主にはそれが出来ない事情があったのであろう。
くすんだガラスから目を離し、私は何の気なしに周囲を眺める。
猫を見つけた。
風が当たらず日の当たるそこにある小さな塊。恐らく子猫なのだろう。既に生きているとは思われない有様であった。
どこから落ちたのかも分からぬ布だか何だかの上に黒い毛皮がくしゃりと潰れて身動きもしない。
普通であれば虫だの獣だのに食まれるか、土に蝕まれて腐るかするのだが、潮風による塩梅なのか妙に小奇麗なのが却って薄気味悪く思えた。
特に私をギョッとさせたのは、その猫の目である。
まるで濁りのない目玉が、こちらを向いていたのだ。
あまりにもはっきりとした目玉だったので私はその子猫が生きているのかとさえ思ったが、やはり子猫は死んでいた。
触れた訳ではない。しかしあのピクリともしない塊には生の気配がないのである。
何より、あの目は美し過ぎた。まるではく製に埋め込まれたガラスのように。
これと言う理由もなく、不吉な気分になって私はその場を離れる事にした。丁度体も温まっている。
建物の外に出ると、風も先程よりは収まっていた。
再び歩き出そうとした私であるが、休んだ事で心が落ち着いたのだろう、周囲の風景が目に入って立ち止まった。
草の鳴る声。逞しく伸びた雑草。そして疎らに生える秋桜。
逞しき廃墟。捨てられた家具。忘れられた子猫。
真っ当に朽ち果てる事も出来ない子猫が何だか少しばかり哀れに思えて、私は秋桜を数本引き千切ると廃墟へと足を戻し子猫の上にそれをパラパラと乗せた。
乾燥した世界に新しく色が入り、どこか慰められたように見えた。
それから廃墟での出来事等すっかり忘れて、何日かが経った。
ある日。
風が強く絶え間もなく、ゴウゴウと言うそれを聞くだけで草臥れた気持ちになる、そんな夜であった。
寝れない私はリビングで本を読んでいた。片手には紅茶と、ビスケットを置いていた。
何かがドアを叩いたような気がして、私は本から顔を上げた。
しかしこんな時間であるし、風のせいであろうとまた本に目を戻す。
今度は明確に、トントン、と音がした。
一体何事かと、私は扉へ恐る恐る近付く。
そこには人影らしき物が映っている。随分小柄な影である。
私は扉を開けた。
そこには一人の子供が立っていた。
否、子供と呼んでいいのだろうか、それは。
体ばかりは人のようであったが、首から上は猫の形をしていた。
猫人間、とそれだけで十分歪な存在であるのに、猫の形をした頭は三分の一までが毛皮に覆われ、そこから先は骨と肉が僅かに覗いている。
そしてその全体を覆うように苔と細い根っこが伸びて、終点にはいくつもの秋桜が咲いていた。
黒と緑が入り混じったそれは「にゃあ」と一声鳴いて、部屋の中へ入って来た。
私は、猫は化けると聞いたがこういう事か、と思い、ただただ困惑して、置きっ放しのビスケットを齧るそれを見つめたのであった。