「止めないでね」
唯一無二の居場所である屋上で、白い顔の少女がそう言った。
「止めないよ」
彼はごく自然にそう答えた。
そして少女から少し離れた何時もの場所に座って空を仰ぐ。
暫くそのままの時間が続き、彼は少女に意識を下ろして初めて、彼女の足が震えていた事
に気付いた。
彼は少女の方へ近付いた。
「手伝ってあげる」
彼は少女の背中を押した。
少女が地面に落ちていった。
彼は差し出した左手をそっと元に戻し、何時もの場所へ座り直した。
彼から随分遠い場所、少女に大分近い所では騒ぎが起きていた。
彼は捕まった。
彼を捕まえた人間達はあくまで「話を聞く」のだと言っていたが、彼にして見れば拘束さ
れているも同じだった。
狭い箱の様な部屋は彼に合わなかった。空気すら薄いその部屋で、彼は見知らぬ人間と
向き合う羽目になっていた。
彼には自らが溺れる豚より哀れな生物に思えて仕方がなかっ
た。
「君は、何時から彼処に居たんだい?」
「女の子が端に立つより後に」
「君が着いてから直ぐに彼女は飛び降りた?」
「違う」
「彼女に何か言ったかい?」
「止めないで、と言われたから、止めないよと答えた」
「それで君はどうした?」
「空を見ていた」
「何故?」
「その為に屋上へ行ったから」
「…彼女を止めなかったのか?」
「どうして?」
「今にも死のうとしている人が目の前に居たんだろう?それとも彼女は君が来てから思い止まるようなそぶりを?」
「いいや、端に立った侭だった。」
「ならどうして止めない?」
「どうして止める必要がある?」
彼の見知らぬ人間は、暫し口をつぐんだ。
「…屋上で何があったか、一から説明しなさい」
「屋上へ行った。女の子が端に立っていた。声をかけられたので返した。空を見た。
女の子がそのままだったので近付いた。背中を押して手伝った。女の子が落ちた。また空を見た。
知らない人間がやって来て捕まえられた」
「……?!お前が殺したのか!?」
「違う。動くのを手伝っただけ」
「背中を押したんだろう?!」
「高さに震えて動けない様だったから」
「それにしたって背中を押すなんて…!!」
「だって女の子は死のうとしていた」
「止めるのが普通だろう!」
「死ぬ気の人間を止める権利なんて持っていない」
「お前は人一人死んだのに何とも思わないのか!?」
「可哀想だと思う。屋上に入れなくなるかもしれないのが残念だとも思う」
彼の見知らぬ人間は言葉を失った様だった。
見知らぬ人間は沈黙の後、部屋を出ていっ
た。
扉の向こうで「精神……」と話す声が聞こえてくる。彼はすっかり息苦しくなっていた。
酸素が薄く、まるで生きた心地のしない場所には楽し
みの一つも存在しない。
仕方が無いので彼は消える事にした。
小さく小さく縮こまった彼は、やがて影を失い水の様に薄らいで、消えた。