全ては駄目になってしまった。


 唾を飛ばしながら、口の端に泡を吹きながら、誰も彼もがこぞって世界の終わりを叫ぶ時代。
 事実、世界の悪い所は幾らでもあげられたのに、良い所は碌にあげられない。
 不幸は山の様にあって、幸福は奪い合うしかない。
 打開出来ない。悪夢が続く。涙しか出ない。悲鳴は枯れてしまった。

 もう、人間は駄目なのだ。

 誰かが呟いた言葉は世界中に感染して、気付けば死のう死のう、さあ死のうと誰も彼もがこぞって死を讃え始めた。

 自殺をしたらおめでとう。
 全ての教育機関は死を見つめ、正しい死に方を学ぶ為の場所になった。
 美しく、立派な人間が率先してどんどんと死んで行く。
 人間を増やさない為にと女が次々死んで行く。
 こんな世界を作り上げた責任を取れと言われ、どうせ老い先短いだろうと言われ、年寄り達がのたのたのろのろ死んで行く。

 残されたのはどうしようもない人間と、若者ばかり。
 残された人々は人々が正しく死ねるようにと収容所を作り上げ、小さく小さく纏まった。

 荒廃した空間。粗末な食事。
 死にましょう、いつか死にましょうと言い合う人の虚ろな瞳。

 時々人が死んで、やっと少し安心する。



 そんな世界の、そんな収容所の中に、Aという人間は存在していた。

 Aは世界で最も意味がなく、価値のない存在だった。
 それは誰にも覆す事が出来ない、純然たる事実であり真実だった。
 疑問の余地もなければ、当たり前過ぎて理由を一々口にする必要もない。
 それ位に確実で、絶対で、確定された事だった。

 しかしAは今日も生きていた。
 生きている事が害悪だとA自身でさえ理解している筈なのに、Aは生きていた。
 顔を合わせた人全てが何故お前は生きているのかと問うた。Aに向けられる人の目はいつでも塵を見る様なものだった。暴力を振るわれた事こそないが、Aに好んで近付く人はいないしAが動けばそれを避けて人も動いた。
 Aはいつでも質問には答えられなかった。冷たい目を向けられては申し訳ない気持ちになった。人に近付かずに済んだ日は不必要な迷惑をかけずに済んだと思えた。動かざるを得ない時には出来るだけ人を避けるようにしたけれども、やはり申し訳ないと思った。

 Aは毎晩何故自分は死なないのだろうと考えた。
 自分はどうしようもなく無価値な人間であるし、死ぬのが当たり前の世間である。環境は決して良くないし、あれだけ言われて死なないのも申し訳ない。これらの問題は死ねば解決する。特別な未練もやり残した事もない。昨日死んで居ようが今日死んでいようが構わない筈なのだ。
 そう、だから明日朝には死のう。死んでしまおう。
 考えるばかりで、結局Aは朝を迎えて昼を越えて夜に悩んで一日を終わらせる。

 或いはこれこそが、Aが駄目でどうしようもなく、無価値で無意味で害悪な人間である事の証明であるのかも知れない。



 ある日、収容所に一人の人物が新たに加わった。
 世界は美しいが人間の存在した所は醜い。崩壊するまで毒を垂れ流して環境自体を汚染しているのだ。
 そんな環境からどうして無事にやって来れただろうと、多くの人はその人物を不思議に思った。
 しかし彼はとても美しい人だった。そして聡明でもあり、言葉も達者であった。なので不思議に思う事を誰もが止めた。
 これだけ素晴らしい人間ならどうとでもやって来れるだろうと、当たり前に想像が出来たからだ。

 美しい彼は曇った収容所の中で、唯一と言っていい清涼剤だった。
 
 人々は彼を好いた。尊敬さえした。
 彼は美しく立派に死ねる人だろうと誰もが思った。

 彼が現れて一日目。だが彼は死ななかった。急な事だったからそれはそうだろうと誰もが思った。彼が現れて三日目。だが彼は死ななかった。調子が悪そうだったと薄ら噂が立った。彼が現れて十日目。だが彼は死ななかった。すぐにも死ねる人間が、急いで死ぬ必要はないのかも知れない、と誰かが呟いた。

 彼が収容所にすっかり馴染んだ頃。人々はある事実に気付き、我先にと死に始めた。
 彼が死んでしまった後に残される恐怖。彼の様な人は二度と現れないだろうという予感。嫌悪。罪悪感。それらは人をどんどんと死に向かわせ、結果、今までにない程順調に人間の数が減った。
 人々はこれを彼のお陰だと言った。


 そんな中でもAは相変わらずの一日を過ごしていた。他人と違っていたのは美しい彼に、近付かない努力を必死になってしていた事だろう。
 Aも彼に憧れない訳ではなかった。しかし憧れの対象たる存在に自分の様な人間が交わる事は許されないと思ったのだ。
 だが、収容所は決して広い場所ではなく、生活に必要な場所は限られている。近付かない事を選択するならばAは早々に周りと同じく死んでいなければならなかった。しかしAは死なないのだ。
 結局、彼とAは出会ってしまった。

 始め、彼はAの存在を理解していないようだった。
 それはそうだろう。態々Aという人物を説明するのは無意味で、説明する人間も説明される彼も気分を悪くするだけだ。一々すべき事ではない。
 折角人々がAの事を無視してくれていたのに、こうして彼の前に姿を現わしてしまったのはAの責任でしかない。だからAはどうしようもないのだ。
 Aはまた人生に恥を塗り重ねた。あまりの羞恥に俯けば、美しく聡明な彼は何と言う事か、A如きを心配して近付いて来てしまったのだ。
 Aはいよいよ己の無能さが嫌になった。

「申し訳ありません。大丈夫です。どうぞお気になさらず、私に近付かないで下さい」
「ああ、済まない。何か気に障る様な事をしてしまっただろうか」
「いいえ、そうではありません。私の様な人間に貴方が近付く必要はないのです」
「そうは言っても、何だか気分が悪そうだから」
「気分は問題ありません。大丈夫です。ただ己の無能さを恥じているだけです」
「無能とは?」
「私は無価値などうしようもない人間です。本来ならば貴方が私に近付く前に死んでいなければならなかったのです」
「君に近付いてはならないという事だろうか?」
「そうではありません。私が存在するべきではなかった。そもそも今まで生きていたのがおかしかった。私の生は無意味でした。生きていたとしても無意味のままでしょう。そんなものは決まり切っていて、理解もしていた。それなのにこの世界で私は死なずに生き続けて来てしまった。そしてその事を恥じているのにまだ死んでいない」
「何だか難しい事を言う」
「難しくはないんです。ただ私が死ねばいい、簡単な事。それが出来なかっただけ」
「確かに今の世界は死にたがっている」
「その通り。その上で私は最も早々に死んでいるべきだった」
「それが良く分からない」
「分からない。何故ですか?いいえ、何でもありません」
「何故?」
「いいえ、ごめんなさい。申し訳ありません。ごめんなさい。何でもないのです」
「何故謝る?」
「私如きが貴方の言葉を否定する理由はありません」
「そうだろうか」
「ええ、そうです」

 彼はAの様を見て不思議そうに首を傾げた。
 Aは彼の美しさに気を取られ、そしてそんな事を考えるばかりでさっさと死なない自分を酷く無様だと思った。


 それ以降、彼はAに近付いて来るようになってしまった。
 Aは只管に申し訳ない気持ちで一杯だった。

「おはよう」
「おはようございます」

「今日はいい天気だね」
「そのようですね」

「それじゃあまた」
「ごきげんよう」

 彼に話しかけられる程に、Aは死ななければと思った。しかしAは死ななかった。
 死ぬべきだ。死のうと思う。しかし痛いのは嫌だ。自分は死にたいのであって痛い思いをしたいのではない。死ぬべきだ。死のうと思う。しかし恐ろしいのは嫌だ。自分は死にたいのであって恐怖を感じたいのではない。死ぬべきだ。死のうと思う。痛いのも苦しいのも恐ろしいのも一瞬だ。しかしその一瞬が最も辛いのではないか。自分は死にたいのであって、辛い思いはしたくないのだ。
 いっそ死は死単体の存在であって、苦痛や困難や絶望と言ったものとはかい離していればいいのに。
 死ぬという事さえ見失いかけたAは余程馬鹿馬鹿しい悩みに捉われてやはり死ねず、脳味噌の足りない鼠の様に同じ所をぐるぐると回り続け、無駄に疲弊していった。

 そして朝。やはり彼はAの所にやって来た。
 この頃になると人間は大分減って風通しも見通しもよくなってしまっていたので、隠れようもなかったのである。
 ただでさえ無価値で無意味で害悪であると言うのに、草臥れ切ったAはこの上もなく愚鈍であった。彼に話しかけられても碌な回答も出来ない。壁に話しかけた方がマシではないかという有様だ。

「おはよう」
「……おはようございます」
「おや、今日は何だか元気がないようだね」
「いいえ、そんな事はありません。ありがとうございます」
「顔色が悪いんじゃないか?」
「いいえ、元々です。頭が悪いので仕方がないのです」
「その因果は良く分からないけれども」
「申し訳ありません」
「いいや、そう感じる事が許されるのであれば、こちらは愉快だから構わないと思うよ」
「ありがとう」

 彼はAと共に居ても笑っていた。
 Aは今まで嗤われる事はあっても人の笑みを間近で見た事がなかった。当然の事ではある。
 彼は特別に優しい人間なのだとAは鈍った脳味噌のままにそう思った。

「今日は少しだけ、長く話を聞いてほしいんけれども、いいだろうか」
「貴方がよければ」
「……珍しい、否定しないのだね」
「ごめんなさい」
「いいや」
「私と居る事は貴方によくありません。しかし貴方を否定する事は私に許されるべきではないのです」
「そういう事だったのか」
「申し訳ありません」
「ふうん」

 不思議な息を漏らした彼は、Aを連れて収容所の外へと出た。
 外に出る事自体は悪い事ではないが、今まで誰も実行した者はいない。Aは枯れた土を踏みしめ薄汚れた空を見上げると思わず身を震わせた。

「前々から思っていたのだけれど、何故君は無価値なんだい?」
「それは決まっている事だからです」
「一体誰が決めたのだろう?」
「生まれた時からそうなのです」
「それはどうして?」
「私が私であるからでしょう」
「君でいる事は罪なのか」
「私が駄目なのです」
「ふうん」
「実際、私は碌でもない存在なのです。私等存在するべきではなかった。そもそも今まで生きていたのがおかしかった。私の生は無意味でした。生きていたとしても無意味のままでしょう。そんなものは決まり切っていて、理解もしていた。それなのにこの世界で私は死なずに生き続けて来てしまった。そしてその事を恥じているのにまだ死んでいない」
「それは以前聞いた気がする」
「ごめんなさい」
「そうじゃない」
「申し訳ありません」
「いいや」

 彼はこの汚染された世界でも美しかった。
 おぞましい風が彼にバサバサと吹き付ける事がどうしようもなく許し難いと思える程に彼は美しかった。

「ねぇ。僕は、反逆者だ。そう言ったらどうする?」
「意味が分かりません」
「そのままの意味だよ」
「逆らうという事ですか」
「その通り」
「何に逆らうのですか?」
「全てにだ」
「全てと言うのは、全てでしょうか」
「ああ、全てにさ」
「私にはよく分かりません。ですが、貴方が言うのだからきっと正しい事なんでしょう」
「そうかな?」
「ええ。きっとそうです」

 彼はAの言葉にまた、ふうんと息を漏らした。
 また風が吹き、砂が二人に吹き付ける。Aは彼と話しているにも関わらず、耐え切れなくなって顔を背けてしまった。
 彼はお構いなしでまた口を開く。

「正直に言おう。全てが下らないんだ。下らないのだよ。何もかも。つまらない。無益だ。無駄で無意味で無価値でどうしようもない。この世界に存在する全てが」

「美しい事も、聡明である事も、そうではない事も」

「存在の全てが下らない、存在しないモノの全てが下らない」

「生が下らないというのと同じだけ、死もまた下らない」

「僕には、その様にしか思えないのだ」

「君にだから言ってしまった。或いは聞こえていないのかも知れないけれどね」


 彼の言葉は途切れ途切れに聞こえ、到底意味をなすものとは思われなかった。
 けれどもその時の彼はAが今まで見た生き物の中で最もとてつもないモノの様な、そんな表情をしていて、結局はそればかりがAの目に焼き付いてしまったのだった。



 収容所の中では、また人が死んでいた。

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