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「あなたの話を聞かせて」

 そんな風に少女が話しかけるのは何回目だろうか。
賢者と出会って何日も経ち、森の外に興味を持たなくなって何日か経った。

自分の恥と罪悪感から目をそらそうとして、一人の人間を裏切った事に彼女はまだ気付かない。
もしかしたらコクハクが名前を捨てずにいるかもしれない事、少女との再会を望んでいるかもしれない事、持ち出された緑と共に少女の行方を案じているかもしれない事。
そんな可能性に少女は責任を取りはしない。何故なら気付いていないからだ。
きっと、少女は一生気付かない。

酷い話だ。けれどもよくある話だ。



少女の関心は今、たった一人に向いている。
人を食った賢者。

彼女を住まわせて世話もしてくれていて、この世界の色々な話を知っている男。
賢者の言葉は冷たい事も多い。
少女の知らない甘えを認めないとでも言うように。

賢者が少女以外の誰かと一緒にいる所を少女は見た事がない。
家の周りでィアンに遭遇したりするのと、二人の生活無能者が少女を窺いに近くまでやって来る事がある位で、賢者が呼び立てて話をするような事はない。

賢者は一体どんな人物なのか。それさえ少女は知らない。
物騒な呼ばれ方をしてはいるけれども実際に人を食っているのかは分からないし、誰にも会わずにいる姿は賢者より隠者の方が相応しいのではないかとも思える。
彼が何を好きなのか。何を嫌っているのか。それもよく分からない。
嬉しいのか、悲しいのか、それもよく分からない。

何を思って少女を家に住まわせてくれるのか、少女を好きなのか嫌いなのか。
何一つ少女は知らないままに少女は賢者の下にいる。

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 昼になると少女は食事を摂る。
少女が今日口にしたのは、パンケーキとベーコン、それに卵を焼いた物と甘く妙にどろっとしたジュースだ。
味は悪くない。
けれども時々、本当に時々不安が走る事もある。

これは正しくパンケーキでベーコンで、卵でジュースなのだろうか。
いやパンケーキでベーコンで卵でジュースだったとして、少女が知っているパンケーキとベーコンと卵とジュースなのだろうか。
パンケーキは小麦粉とと卵と牛乳が大元にいて、それをフライパンで焼いたものなのだろうか。
小麦粉は小麦のもので、小麦は水と太陽と土で育っていて水と土は清潔で、太陽は朝昇り夜沈むものだろうか。

少女の世話をしてくれる賢者は何も言わない。
きっと特別な事はないからだろう、と思えばいいのだろうけれど、特別な事と特別でない事の違いは一体どこだろう。
まして少女はここの人間ではないのだ。

気になるならば自分で作ればいい。
けれども少女は料理がまだ出来ない。火を起こす事も獣を捕まえる事も出来ない。台所も持っていないし、賢者の使う台所を借りても少女の背と力が足りないのできっと碌な事にならない。
少女が自分で食べる物を一食揃えるとしたら、下の方にある柔らかい木の実を並べるのが精一杯だろう。


賢者は少女が食事する時、見ているばかりで共に席についたりはしない。
だから時々の不安はいつまで経っても晴れない。
いっそ本当に人間だけを食べていればいい。
そう思ってしまう事さえある。

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 夜、少女は一人で布団に入る。
両親がいた頃には一度も体験した事がない事で、引き取られた家では最も嫌いだった事だ。
けれども今は当たり前に一人で一つのベッドを使っている。
ベッドは少女にぴったりのサイズで、子供か女性でないと窮屈に感じるだろうコレを賢者が何故置いているのかは知らない。今使っている大きなベッドがあれば十分だろうに。
気になって尋ねてもやはり賢者は笑うばかりで答えない。だから少女も深く考えるのを止めてしまった。

眠っている間は夢を見ない。そして何も起こらない。
けれども眠りと目覚めの辺り、そろそろ起きなくっちゃと思いながらも浮き沈みをしてしまう時に毎回少女は不思議な物を見る。
それは脈絡のない話でもあったし、有り得そうな事でもある。

薄暗い中、二人の男の明るい方だけが賢者と話していた。彼は今日はカレーを食べなければならないと言って、賢者はここにカレーはないと言った。
そして一瞬意識が途切れている間に薄明るい中で二人の男の暗い方が賢者と話をしていた。彼は病気だからと何かを探していて、賢者は探し物の話をしていた。
また気付くと、ィアンと呼ばれた男がいて賢者に恨み事を言っていたのだけれども、それに気付いた少女は突き飛ばされていた。

両親がいた頃や引き取られた家ではそんな、まるで眠りに絡め取られた風になった事は一度もなくて、どうしてここではそうなるのだろうと思う。
悩んだ所で答えは出ない。賢者にはぼかして聞いてみたけれど、ぼけた答えしか戻らなかった。
なのでやはり深く考えるのを少女は止めてしまう事になる。


こうしている内にどんどん物事が気にならなくなって、最後には何も感じなくなってしまうんじゃないかしら。
そう思うと少女は恐ろしい様な、寂しい様な気持ちになる。

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 眠りから離れた朝。
少女は大体起きた一番始めには窓を見る。次に顔を洗って着替えをする。そして飲み物を飲んで、空腹を感じたらキャラメルを舐める。そして最後の方で賢者にあのフレーズを問う。
といっても窓の外は変わらないし、顔はたまに洗わない時もある。着替えも前の日が雨だったりするとない事もある。飲み物も暖かかったり冷たかったりするし、空腹に負けて早めの昼食を摂る事もある。賢者からも答えはない。
そもそもが決まった事等ない生活と考えるべきなのかもしれない。
ただ少女の中には「いつも」という形がありそれをなぞるように生活しているというイメージが存在していて、少女はそこから外れた事がないつもりでいるので、やはり朝の始まりを少女がいつも或いは日常と呼ぶ以上それが間違いであるとは誰も言えないだろう。
どの動物であってもきっとそれは同じ事だ。


けれども今日。
少女はふといつもと違う事が気になった。なのでいつもではない質問を賢者にする事にした。

「私が持って来た緑色は、一体どうなったの?」

賢者はその時少し驚いたような顔をした。やはり賢者の中にもいつもが存在したのだろうか。
少女が賢者と過ごした中で初めて見た顔であった。

「緑色はどうしたの?」
「随分今更な質問だね」
「今更思い出したんだもの」
「あれは使ってしまった」
「使ったって何に?あれは何だったの?食べ物?飾り?それとも薬?」
「食べ物ではないし、薬でもない。強いて言えば飾りかもしれない」
「かもしれないって何?」
「何かを装飾しているという点では飾りにもなるのかもしれないけれども、それを本質として求めた事はないという所だね」
「じゃああなたは何をあれに求めるの?」
「役割を」
「役割って?」
「緑が緑である以上に有益だと思える事だ」
「それって何?」
「緑が緑であった姿を見ただろう?」
「多分、綺麗だった」
「そう綺麗だ。でも綺麗なだけ、だからそれ以上の事に使うんだ」
「それ以上の事って?」
「君が綺麗である事以上だと思う事の内か外にある、私と言う人間が思う綺麗である事以上に有益だと思う事だよ」
「難しいわ」
「そう。きっと難しい」
「分かりやすくはならないの?」
「分かりやすい事は分かりやすく存在しているから分かりやすいんだ。分かりにくい事は、分かりやすくすれば分かりにくい事が削れてしまう。だからそれは真実ではなくなってしまう」
「真実を知らないと駄目なの?」
「真実以外を知りたいなら、知らなくたっていいじゃないか。好きに考えればいい」
「そうかもしれない」
「真実ではないものを真実だと思い込んで好きな妄想で補う事程幼い事はないよ」
「私は子供だけど?」
「でも君は少女だ。少年ではない」
「少年は幼くていいの?」
「違うよ。けれども少女は少女でないといけないからね」

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 賢者にはぐらかされた少女は、家のすぐそこで退屈しのぎをする。
一人きりだし、あまり遠くへ行きたいとも思わない。なので精々地面に生える草を見つめたり、空を眺めたり、たまに地面を穿る事しか出来ない。それでも暇と時間は潰れていくので構わない。

少女が何気なく草を爪で弾いていると、『明』と『暗』がやって来た。

「こんにちは」
「挨拶が出来るのは素晴らしい事だね」
「そう、その通り。だが何故挨拶が必要なのかも忘れてはいけない」
「それはどうして?」
「挨拶はコミュニケーションだ。相手の存在を見止めているという表しだ。だから存在を無視しての挨拶は害悪なのだ。反対に挨拶等なくても存在を見止め、認めてさえいれば挨拶に拘る必要等本来はない」
「ややこしい事を考える必要はないよ。僕の子供」
「そう?」
「それより、人を食った賢者はいるかい?」
「いるけれど、何の用?」
「用事等ないさ。しかし、こんな所に子供を一人で置いておくなんてとんでもない話だ」
「だって中は何もないのよ」
「暇なんだね」
「暇なのか」
「そう、暇なの」

生活無能力な二人ではあるけれども、彼等は少女を自らの子供と言い、彼女の事を心配もする。
だから少女は少しばかり、彼等に対して優越感と安心を抱いていた。

「では僕等が話相手をしようか」
「ああ、一緒に居よう」
「そうね、それはきっと楽しいわ」

そうして、三人でどうしようもなく詰まらない話をする。
男二人はあまりにも無秩序で、現実味のない滑稽な意見を言うし、少女は幼いが故に無垢で無知で残酷な事を軽々しく口に出してしまう。
もしもここに理性的な大人がいたならヒステリーを起こして枠の中にギュウギュウと三人を押し込んだ事であろう。
しかしここは一つのよくある角砂糖ではなく、隣のもうひとつの角砂糖だ。だから例え人目についたとしてもきっと誰も彼等を気にしない。

いつの間にかそこいらに生えていた草は全部抜かれてしまったし、地面は撒かれた水でぐちゃぐちゃになっていて、三人はそれを大真面目な顔で掻き混ぜていた。


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 もうすっかり彼等の小さな庭が彼等によって蹂躙され切った所で、ふと顔を上げた少女は不思議なものを目にした。

ィアンに取り憑かれた男がまた賢者の家にふらふらと近付いて来ている。
男はもう既にぶつぶつと何かを喋っているようだったけれども、少女達の所からではその内容を聞きとる事は出来なかった。
聞けたとしてもどうせ意味のない事でしかないだろうから、聞く意味もまたないだろうが。

ただ、それだけならきっと全てが意味のない行動でしかなかったから、少女も不思議には思わなかった筈である。
ただそれだけなら、きっと賢者の言葉を思い出して怯えていない振りをしながら内心びくびくするだけで済んでいた。

ただそれだけ、では済まなかったのは、賢者が男を家の中に招き入れるのを見てしまったからだ。


賢者はまるで友達に出会ったように親しげに男に触れていた。
緑色の何かを被っていて生臭くて痩せていて半裸の男は相変わらず気味が悪いままであったけれども、賢者の言う事には従っているように見える。

そこからは家の中に入ってしまったので、少女には窺う事が出来なかった。

「どうしたんだい、僕の子供」
「今、よくわからないものが見えたの」
「世界にはよくわからないものが多い。だから気にする必要はない」

どちらかと言えば心配症な方の男がそんな事を言う。
元々こちらの男は少女に対して子供扱いするような態度を取りがちであったけれども、少女はこの時に限っては何故だか無性に腹が立って、つい言葉をきつくしてしまう。

「賢者と同じ事を言うのね」

すると男はしなしなとなって、まるで蹲るように濃くなり姿が見えなくなってしまった。
もう一人の男の方も飛び跳ねるように薄くなり姿が見えなくなった。

「どうしたって子供は反抗するものだね」
「そうじゃない。だって、私は子供だけれども私なんだもの」

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また一人になってしまった少女は少し考えて、家の中に戻る事にした。
考えたのはィアンに取り憑かれた男が恐かったではない。怯えていると賢者に言われたくなかったからだ。
少なくとも少女はそういう風に思っている。

少女は扉の前に立った。そこまではいつもと変わらない。
扉に手をかけた時、何だか緊張をした。けれどもそれは少女の中でないものとされた。

少女はそのまま扉を開けた。


「ああ、見られてしまったね」


一杯の緑と黒。
それ以外には一人の男(半裸で痩せている。髪が少し伸びていると少女は思った)と、賢者(緑色を両手に持って耳に当てていた)が目の端に入った。
けれどもすぐに少女は何も見えなくなった。

緑、黒、緑、黒、緑、黒、緑、黒、黒。渦を巻く様な二色。

黒いのが闇だと気付いた時には、少女はどこにでもいる不幸な子供でも酷い子供でもなく、二人の男に拾われた迷子でもなく、サイという名前の少女でもなく、まして今そこで扉を開ける事を躊躇っていた少女でもなくなっていた。


少女はィアンに取り憑かれた子供になった。
ほんの僅かに残った心が、自分が突き落とした小鳥はこんな想いをしたのだろうとそんな風に思った。

『人を喰った賢者』はそんな子供を見ながら、やはり笑っていた。
けれどもそれを嬉しそうと表現する人間はきっといないだろう。
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