ある朝、花が咲いた。
震えれば弾けて滴る程に瑞々しい赤い花だ。


冬の事である。
大して日が当たる訳でも無く、其処が妙に暖かい訳でも無い。
寧ろ気温で言えば寒い日々が続いていた。

白い壁に大きな硝子窓があるお陰で光ばかりは差し込んでいるが、少しの穏やかさも無い。
冴え冴えとしていて、まるで墓の下の様である。

そんな家に女は一人で住んでいる。



女は嘗て、美しい少女であった。
勝気ではあるが聡明で、物を知る事が好きな若者であった。
食事を欠いた経験も無く、呼び鈴を鳴らせば誰かがやって来る、そんな生活を送っていた。
けれども女がそれに甘んじた事は一度も無い。
淑女としての作法は全て身に付けたし、女の手習いで覚えた技は何処で見せても恥ずかしくない程の出来であった。
己の欲求である知識を得る行為はとても熱心で、寝食を忘れる事さえあった。

そんな女も、年頃になり嫁ぐ事となった。
当たり前であるが、親というものはより良い環境に娘を嫁がせたがる。それが女の為であり己の為でもあり、ひいては一族の為になるのである。
だが一方、娶る男は然程女の身分に頓着しない。中には女の身分や金をあてにして成り上がろうとする者もいなくはないが、大概の所、若くて見目が良く上品であれば良いと言う。
地位や金は持っているならそれはそれで猶良いといった位であろう。
勿論世には恋愛で結ばれる男女もある。心が通じ合っての出会いもある。
しかし女と、それが結婚する男は違った。それだけの事だ。


かくして女は脈々と続いて来た由緒ある一族の一員として迎えられた。
だがそこは、女が生きてきた世界とはまた違った世界であった。
女の勝気な性格は嫌われた。知識がある分余計にである。そうなってしまえば完璧な所作もただの鼻につくものにしか思われない。
男は女の事を省みない。女もまた勝気のあまり弱音を見せない。結局何処にでもある歪な夫婦になってしまった。
不幸であったのは、女が子供を生むのに失敗してしまった事である。
精神的に追い詰められていた女の体は蝕まれた。結果折角跡取りとして求められていた子供は流れてしまった。
それが二度も起これば母体は傷つき、女を省みる者は減る。そしてますます女は追い詰められた。
頻繁に癇癪の病に見舞われ、人と顔を合わせる事さえ嫌がる女を、元々持て余していた人間達にどうして世話出来たものであろう。

何よりも血を残す事を重視していた男とその一族は、女を見放した。
流石に放逐する様な事は無い。年若い妻を子供が産めないからといって追い出したのではこの時代にしても世間体が悪い。
けれども事実はそれと変わらなかった。
療養の為として田舎に買い与えられた家に女は一人取り残された。家には今頃女よりも更に若く健康的な愛人が入り浸っている事だろう。


女好みに仕立てられた立派な家と美しい庭。嫁入りに持参した衣装も全て箪笥に入っている。
しかし女の味方は誰も居ない。
もともと男の屋敷では召使いにさえ心を許す事が出来なかった。実家の女中は今更呼ぶ事も出来ない。
居るのはこの田舎でかき集められた村の人間数人と、女を監視する為の女中頭一人である。

男からは時折手紙付きで都会の化粧品や装飾品が届けられた。
どれも女の好みを一つも理解していないのが丸分かりの品々で、綴られる文章は何処かからの引用と定型文ばかりである。
全てが女の神経をキリキリと痛めつける。女は少しずつ疑心暗鬼に襲われるようになった。
尤も、田舎人の無邪気で下品な行いに関しては女の勘は正しく働いた。いや、働いたからこそこうまで心が乱れたのかも知れない。

こんな場所にたった一人。立派な屋敷で過ごしているが庭でさえ姿を見た事が無い。
村人の興味は女に集中し、そして屋敷に出入りする人間は丁度いい情報源となる。
その事実に女が苛立ち出入りする者を責めても、彼等に女の心境は悟れない。
結局ただの酷い女が居るという話になるだけで、寧ろ噂は悪化する。

いっそ女は死んでしまおうかとさえ思った。しかし理性がそれを邪魔する。
己に非は無い。なのにどうして死なねばならない。それは可笑しい。
そうして女は苦しみ続けるのである。



ある日。ある朝。
夜は眠れず、眠った後も散々悪夢に取り憑かれ、起きてからは頭痛に悩まされる。
朝から顔を顰めた女に使用人は近寄ろうとせず、家の中はひっそりとしていた。ただでさえ温まりが悪いのに、この冬の寒さは一入でそのまま凍えてしまいそうな程である。
動きを止めれば震えが来そうで女は立った儘、無意味に室内を歩き回きふらふらと窓の方へと近寄っていった。
外からの日差しにも温かみは無かった。
しかし女は其処で赤い薔薇を見付けたのである。

こんな寒い頃に何を勘違いして咲いてしまったのであろう。他には花も蕾も見当たらないし、葉さえ付いていないのが多いというのに。
女はその薔薇に自分の姿を重ねる。
虚しさのあまり息を震わせて笑いを零すと、窓硝子が白く染まった。


あの花はどれだけ美しく見えても無駄な存在でしか無い。存在する事がそもそも異端である。そのまま朽ちるに任せて果てる運命だ。
いいや、一見美しく見えてはいるがこんな時期に咲いてしまうという事はもう既に中身が狂っているのだろう。

誰も居ない部屋の中、女の壊れかけた笑い声を聞いても誰も寄っては来ない。その事が女をますます絶望させる。
異端者の味方は世に存在しないのだ。

花と共に朽ち果ててしまいたい。衝動に襲われた女は引き出しから懐刀を取り出した。
嘗ては健康的に肉付いていた胸も今なら易々貫けるだろう。刃が皮膚を一枚裂く。不健康に青白い肌の内側から赤が滲んで来る。女は薄ら浮いた色の愛しさに薔薇を振り返った。



しかし女は薔薇を見る事が出来なかった。
窓の向こう、薔薇と女の間にみすぼらしい男の背中があったのだ。

女は男の背中を目で追った。
みすぼらしい男は窓に目を向ける事無く、しゃがみ込んで薔薇の手入れをしているようである。
根元で暫くごそごそとしていた男だが用が済んだのかやおらぬっと立ち上がり、そして初めて気付いたかの様な仕草で咲いた薔薇に手を掛けた。
外見からして、この村の人間であろう。庭の手入れに雇われた男かもしれない。
そんな輩でも薔薇の美しさは分かるのだ、と女は妙な自尊心を満足させた。しかしそれも次の瞬間までである。

パチンと。
みすぼらしい男は無造作に奇跡の様な美しい薔薇を切り落とした。

女は思わず声にならない声を上げる。
目の前が怒りで真っ赤に染まりかけた。同じ赤でも、女の肌についたそれや無惨に手折られた薔薇とは違う品の悪い赤であった。
女は衝動の儘に部屋を飛び出し屋敷を飛び出し、そして庭に迄飛び出した。
薄い室内着に碌に整えられない縺れ髪の女にどうして理性が感じられるだろう。キリキリとした普段の女を見慣れている者ならとうとう乱心したようにさえ思えた事であろう。
そんな有様の女が目の前に現れて、しかし男は目を見開く事さえ無くその凡庸な顔を女に向けて突っ立っていた。

女は吠えた。
それは吠えたというのが正しい、酷い声であった。
恐ろしい形相で感情を剥き出し喚く女の言葉をそれでも男は理解したらしい。
女の息が切れ、酸欠で倒れそうになった所で深々と頭を下げ詫びた男は、身動きの出来ない女と一輪の薔薇を手に屋敷の方へ歩き出す。
曲がりなりにも淑女として生きて来た女は、紳士的なエスコートに慣れこそすれぞんざいな扱いをされた事等一度も無かった。
背から押され押されで家畜の様に運ばれる状況には最早怒りを覚える事すら出来ず、いっそ笑えてしまうのである。
男のみすぼらしい衣服からは獣の臭いがした。お座成りに腰に回された手は土と良く分からない物に染まっており、それは女の服を僅かに汚した。

男は女を屋敷に入れ、其処で誰も迎えに出ない事が分かると抱える相手の顔色を窺いながら部屋の中まで運んで行った。
中で働く者達は女の精神状態を理解して、余計な仕事に手を付けているのであろう。
「申し訳ありません、奥様。ですが来客があってもので」
「奥様、すみません。今丁度火が落ち着いたものですから」
「まさか、逃げた鼠を放置するわけにはいきませんでしょう、奥様?」
そんな言葉を女は幾度も聞いている。そしてうんざりとしている。
女をベッドに届けた男は無言で部屋を出たかと思うと、暫くして硝子の一輪差しに薔薇を生けて戻ってきた。
そして女の息が落ち着く所まで見守り、また頭を下げ謝罪をしつつ去って行ったのであった。



それ以降、女は時折男を呼ぶようになった。
男は愚直が故に裏表が無く、浅ましい損得に踊る事が無かった。それは女にとって無礼さを補って猶余る程の美徳であった。
切られた薔薇は男が手を加えると不思議に思える程長持ちした。たった一輪の薔薇であったが、美しくある間はずっと甘い芳香を漂わせていた。そして醜く枯れるより前に、男に引き取られ今度はドライフラワーとして生まれ変わった。
女が男を気に入り、大した用事も無く呼び止めるようになると今度は二人の男女関係に纏わる噂が流れた。
しかし見捨てられた身の女以上に実害を受けそうな男に気にした様子が全く無いので、女も矢鱈と腹を立てる事が無かった。

女はみすぼらしい男に、庭仕事を教えるよう言いつけた。男は女に従った。
元々教養高く知性のある女はあっという間に庭の事を覚え、土の弄り方から肥料のやり方、終には男さえ知らない化学的な所まで習得するに至った。
そして女は無害で実直な男に、様々な植物を揃えるよう言いつけた。男はやはり女に従った。
女が指定する植物は一見美しく思えてその身に毒を宿す危うい植物ばかりであった。そうして、その植物を世話しながら男に嬉々として毒性を語るのである。
「これは根を口にすると駄目。呼吸が止まって死んでしまうの」
「これは触れると肌が荒れてしまう」
「これはこんなに美しくて可憐に見えて、毒の塊」
「これは薬効もあるけれど、普通に扱ってはやはり毒」
男は何も言わなかった。
女もまた熱病に冒された様な顔で毒花を愛でる割には、誰一人にも害を及ぼそうとはしなかった。

周りの人々は、田舎男と貴族女の恋愛を噂する一方で、花弄りを始めた女が丸くなったと大団円を決め付けた。
漂う危うさを目に写す者は一人としていない。


乾いた薔薇が玄関先で揺れる内、春が近付いていた。

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