空が青い。空は広い。空が遠い。

……なんて言い回しはありきたりだが、事実それ以外に言いようが無いのだから仕方が無い。
絵の具を水で薄めた様な、だとか遥かなる宇宙を想わせるとか、アニメや漫画なんかでなら幾らでも言えるだろうが現実世界じゃクサイと笑われるに決まってる。


夏だ。

夏は、暑い。
太陽の下に居ると本当にフライパンかなんかで焼かれているみたいな気がしてくる。土の上でも何かムワっとして息苦しいし、アスファルトはこんなもの一般道じゃ無くて拷問用か試練の専用通路だろうという位だ。水の近くなら涼しいかと思えば風が無ければそうでも無い。草の汁の匂いがするのに加えて虫が飛びまわっていて快適さも無い。
外の気温だってそうなんだから、外気を日々浴びまくる建物の中に入ったって冷房が利いてなければ正直大した慰めにはならない。
そりゃあ世の中には特殊な素材や便利な道具もあるが、築十何年を越えた昔ながらの家屋が相手では涼しさを期待するのが可笑しい。増して強火でカラッと油が跳ねる、そんな現場じゃ寧ろ籠って熱気と人間の一騎打ち状態になる。
出来れば近寄りたくない、しかしそんな事は言ってられない。

何故なら俺は中華料理屋の不肖の倅だからだ。

このご時世では流石に免許も心得も無い、生まれてからずっと油の匂いを嗅いで来ただけの高校生を厨房で働かせる事は少ない。
寧ろ繁盛時には邪魔だウロウロすんなと罵声に追い立てられる。実際大昔には熱した油がかかりそうになったとかそういう家庭内事件もあったので此方としてもほいほい近付きたい場所では無い。そもそも暑いし。しかしだからと言って店に完全無関係で居られるかと言えばそうでも無く、配膳やら会計やら片付けやらでこき使われるのだ。
給料は無いし、小遣いに影響する事も残念ながら無い。不景気になると下がるだけだ。
家族経営の嫌な所である。
そうは言ってもこれで食わせてもらってきたんでしょうと言われてしまえば返す言葉もまた無いので、黙って地道に言われるが儘に手伝っている。朝から学校、帰って来て店、飯食って風呂入ってちょっと自分の事をして一日終了。毎日充実していると言えば充実している。忙しいと言ったら忙しい。昨日と大して変わらないなと思えばその通り。
それでもまぁ嫌いでは無い。
嫌いでは無いから、将来的には店を継ぐかなとか思っている。親も何と無くそういう方向で考えてる様だし、進路の話をし出すと友達も「お前はそういう感じだろ」という目で俺を見た上で直球羨ましいとか言われたりする。

だが、彼女にはフラれた。進路の話をしていてフラれた。輝きはしないものの堅実っぽい夢の話で大いに引かれた。
曰く大学に行かないのは有り得ないらしい。
昨今の情勢を見れば寧ろ手に職があった方が安心だろうに。

凄くガッカリした気もするが、考えてみると何故ガッカリしてるのか良く分からなくもなる。
確かに高校初めての文化祭で付き合い出したから、一年以上一緒だった。
顔も可愛いと思うし、痩せては無いけれど運動部っぽい見た目でポニーテールが似合ってた。
体を動かすのが好きらしくて、ボウリングとかカラオケとかそういう所に行くと楽しかった。
でもキスとか、そういう方面では全然先に進まなかったしメールの返事が遅いとか電話の回数が少ないとかで喧嘩になる事も多かった。
こっちの用事で断ると怒られて、しかし向こうは友達と遊ぶ位で断るという事も結構あった。
何より俺よりキャンパスライフを楽しめる相手の方が良いという彼女だったのだ。

忘れよう。そう、それが良いと最終的にはそうなった。


毎年の事とは言え、夏休み頃は手伝いの時間が増える。
特に昼前位から昼過ぎ迄の時間は忙しく、近所の出前に行く事さえある。
漸くタクシー運転手だとかの出入りが落ち着いたので自分の食事をする事が出来た。
ずっと動きっ放しだったのと籠った空気の近くをウロウロしていたせいで酷く疲れていた。口数少なくボソボソ五目飯を食べる俺の姿に、息子を良くこき使ったと思い出したのか親は食べ終わったら暫く休憩して店に出なくて良いと言った。
俺は最後の一口を押し込むと有難くその仰せにつかる事にした。流し場に食器を突っ込むだけして水の入ったペットボトルを持ち裏口から外に出る。
外は暑い。時刻的にも暑い時間だった。
しかし飲み物が口に入れた端から全部汗で出て行く様な調理場に比べれば空気の流れがあるだけ涼しく感じられる。

大通りの人気店では無いが、そこそこ便の良い道の脇。住宅街と自営工場の間位。何をしていても注意される事は少ないが人の視線は常にある。
そんな立地で、店と家が同じ建物に納まった自営業者宅らしいこの我が家は、駐車場としてそれなりのスペースが存在している所だけは自慢が出来る。
車が止められない程のスペースには随分前から植木鉢が幾つも並んでいて、遠目になら庭にも見える。
俺にとって其処は憩いの場でもあった。
植木に隠れていれば客の目からも逃れられるし、仕事中はまず親と会う事が無い。
コツコツとコンクリートブロックや板を集めて作った簡易ベンチは自慢の作品だったりする。
外付けされた水道を捻って足周りに水を流すとまた少し涼しくなった気がして、俺は俯いたまま少しばかり目を閉じた。

鳩の間抜けな鳴き声が聞こえる。厨房では洗い物を始めたらしい、ガチャガチャと音が鳴り出した。店の空調が回る音もする。車の騒音。蝉の鳴き声。

そして子供のぐずる声。

それは段々大きくなっていく。しかも聞き覚えのある声だ。仕方なく俺は目を開ける。
妹だった。


今年になって小学校へ通い始めたばかりの妹ははっきり言って出来が悪いと思う。
同い年の女の子に比べてボーっとしているし、何と無く子供っぽさが強い。
勉強はどうだか知らないが取り敢えず宿題を忘れる事が多いらしい。俺より先に終業式を迎えて初めて貰った通知表に教師からそんな言葉があったせいでその日は大きな雷が落ちた。
その割に気は強くて、俺に対して意味も無く目的も無く挑みかかって来てはコテンパンにされていたりもする。
やはり出来が悪い。

妹は嘗ての俺と同じく、店をやっている時間で学校等に行かない日は外に出されている。
本当の所、大人しくしていられるなら家の中に居ても良いらしいのだが、この位の年頃では当然退屈してしまうので結果的に出されている事になるのだ。
適当に出掛ける先と出掛ける時間帯を書き残して公園だとか友達の家だとか、時には近所のスーパーだとかで時間を潰す。
昼食は冷蔵庫に入っているので一度家に帰って食べるのでも良いし、持って出るのでも良い。
俺の場合は持って出掛ける事が多かった。妹はまだ帰って来る事が多いが、今日は戻って来なかったので持って出掛けたのだろうと思っていた。
昨日からの話で今日は誰かの家に遊びに行っていた筈だが、何でまた泣いて帰って来たのか。
どうせ下らない事が原因なんだろう。

妹は家の中を目指していたようだが、面倒がって植木に隠れた俺を目敏く見付けると勢い良くこっちへ向かって走り出した。
日焼けした顔に涙とそれを擦った線が引かれている。実に汚い。
咄嗟に逃げようかとも思ったが、今更それをしても妹は余計に泣き喚くだろうし、泣くのは俺のせいだと声高に訴え親が顔を覗かせかねない。
そうなったなら、何の咎が無くても俺は叱られる事となる。
仕方無く俺は座ったままで妹を迎えた。

妹は流石に飛び付く事はしなかった。元々凄く仲が良いと言う訳でも無い。
しかし如何に自分が不幸であるかの話は聞かせたいのだろう。
逃げないようにしているつもりか、Tシャツの裾を力任せに掴むものだからただでさえどうでも良いシャツがますますボロくなる。汚れるのが分かっているのに態々新しいシャツは下ろしたくないのだが。
その手がどうにか離れないかと思いつつ上の空気味で聞く事には、どうやら妹は友達と些細な自慢をする内に喧嘩になって言い負かされたらしい。
と言っても妹の性格からして喧嘩を吹っ掛けたのはきっとこいつからなんだろう。
この時期の話と言ったら夏休みに行く場所自慢と相場が決まっている。自営業の親を持つ子が何の仕事をしているんだか分からないが矢鱈裕福そうに見える子のそれに勝てる訳が無い。
適当に聞き流せば良いのにそれが出来ないのだから馬鹿だ。

等と思いつつ、自分にも思い当たる過去がある俺はシャツが伸びるのもあってついつい妹を邪険に扱った。
話を聞いて貰えないと理解した妹は俺を捨てて今度は店の方へと飛び込んで行く。

あ、ヤバイと思った。

早い段階で母親の咎める声が出て、妹の声が被さる。暫くワーワーした後に父親の押し殺した怒声が静かに、しかし確実に響いた。
あの衝撃波みたいな声はどうやったら出すんだろうか、密かに昔から気になってはいる。
兎に角早く顔を出さねば無駄なとばっちりを食らうと俺は焦って裏口の扉をそっと開いた。
すると話は大分進んだのか、調理場からやや離れた家と店の中間スペースで母親と妹がプールがどうたらと言って揉めている。
お構い無しにギャンギャン騒ぐ妹に段々母親もヒートアップして父親の第二声が出るのも時間の問題だろう。そうなるとうちの父親は一日不機嫌になる。
俺は事態の収拾をしようと中に入り、冷ややかな父親の視線を受けて母親へと向かう。

「あ、あんた丁度良い所に来た」
「はぁ?」
「家からビニールプール出してこの子入れてやって」
「はぁ?!」

至極うんざりした様子で母親が妹を俺に押しつける。話を終わらせようとした母親に妹は食い下がった。

「そんなプールじゃなくって、ゆうえんちとかのがいいの!」
「まだお店やってるのにそんな所行ける訳無いでしょ!」
「だってなつ休み前、どこかつれてってくれるって言ってた!」
「それはお店が休みになってからの話よ」
「お友だちのユイちゃんはかい外りょこうに行くって言ってたし、カノンちゃんなんて一しゅう間もおとまりだって!」
「その子達はお店やってないでしょ!」
「何でわたしだけどこも行けないの!?」
「私だけってお兄ちゃんだって一緒じゃないの。今度出掛けられるよう考えておくから」
「こんどじゃなくて今!」
「だから今は無理って言ってるでしょ!お兄ちゃん休憩だから一緒に其処で水遊びでもしときなさい!ホラ!連れてって!!」
「…………」

猫の子が放られるのと同じ様な状態でに妹が俺の腕に納まる。
妹は突然の理不尽に暴れようとしていたが、親の顔を見て危険を感じた俺は妹ごと部屋がある二階へ駆け上がった。

不機嫌そうな妹を一旦置いて俺は物置き化している押し入れを漁った。
其処には普段使わないものが申し訳程度に整理されて突っ込まれている。少し前に衣替えをした際、夏の物を纏めていた事を思い出しながら俺は母親の言ったビニールプールを探し出す。
ブスっとした妹は何も言わずに俺の背中にティッシュの丸めたものをぶつけて八つ当たりをしている。
またそういう事をして親に怒られるのは自分だろうに。
どうにかプールを発見した俺は、妹にそれを見せると適当な格好に着替えるよう促して下へ降りた。


うちにあるビニールプールはその辺の家の庭で赤ん坊がバチャバチャやっているものより深くて大きい。俺が全身浸かる事は不可能だが、腰だけつけて寝転がる位は出来る。妹位なら十分なサイズだ。
その分空気を入れるのには苦労する。足踏みポンプはあるが、楽では無い。体を動かすと汗が出るので今度は口で膨らませると息が切れる。ゼイゼイ言いながらもどうにか立ち上がらせたプールを植木の横のスペースに押し込んだ。駐車場にはみ出す訳にはいかない。まぁ出入りが不便にはなったがそれは仕方ないだろう。
水道に繋いだ散水ホースを引っ張り水を入れた。大量に入れると始末が手間なので半分を目処にする。
大分水も溜まり殆ど準備が整った所で妹が姿を現した。
妹はアウトドア用の汚れても良いTシャツと短パンを選んだらしい。水を吸い込むという点で、後の処理をする俺の身としては水着の方が良かったのだが昨今の風潮からすればこれで良かったのかも知れない。
全く、女児の水着が何だと言うのだろう。あんなものはただの濡れても良い布切れじゃないか。中に詰まっているのも人に八つ当たりしたティッシュの塊すら多分片付けてないだろうなという様な奴だ。半端に浅黒く日焼けした顔も色の付いた飲み物を飲む度に目立つちょっと生えた口髭も、直ぐに汗だくになって張り付く禿げるんじゃないかと不安になる位薄い髪の毛も、どれ一つ取ったとしても俺の心はピクリともしない。周囲の人間だってそうだろう。
馬鹿馬鹿しい。別れた彼女の方が断然可愛い。ふとそんな事を思ってしまって落ち込んだ。
妹は先程迄不機嫌だった癖にいざ水の入ったビニールプールを見るとテンションが上がるらしい。少しの間俺とプールを見つめた後、いきなり家の中へと舞い戻り水鉄砲やらちょっとした玩具を両手に持った状態でまたやって来た。そして無言でプールに滑り込む。
水が思ったより冷たかったのだろう、そこでキャアと声を上げるとあとはもう現金なもので妹はあっという間に上機嫌になった。

バチャバチャと水が跳ねる。嬉しそうに水鉄砲のタンクを沈める妹に俺はホースから直接水を掛けてやった。

「つめたぁい!」

それでも呑気にホースの水を頭に受け続ける姿を見ていると、花に水でもやっている様な気分になる。こうやって水を掛けているだけでこの中に詰まっている脳味噌は大きくならないだろうか。
適当な想いが伝わったのかは知らないが、妹が水鉄砲で俺に向けて放水した。

「わ、てめ」
「やーい!ヘタクソ!!」

何が上手いんだか下手なんだか良く分からない。が、取り敢えず軽く腹が立ったのでホースの口を絞って勢いを上げた水を額にお見舞いする。

「ちょ、やだぁ!!」
「ふん。アホ」
「そういう事言ったらいけないんだよ!先生言ってたんだから」
「本当の事なんだから仕方無いだろ。悔しかったら賢くなってみろ」
「かしこいよ!かしこいもん!兄ちゃんよりずっといいんだから」
「じゃあ後で通信簿もう一回見せて見ろよ」
「べつにいいよ。その代わりに兄ちゃんのもだからね」
「お前、見たって分からないだろ…」

学年順位と成績が書かれただけのぺラい紙を見てこの妹が何を理解出来ると言う。こんなのしか貰えなくて可哀想、で終了じゃないのか。
水遊びの支度でまたも暑くなってしまった俺は靴を脱いで足をプールに浸ける。自作ベンチからでは足を伸ばさなくてはならなかったのでその辺にあったビールケースを引き寄せそれを椅子にした。やや尻が痛い。

「兄ちゃん足クサっ」
「うるせー、踏むぞ」
「ふまれたとこがくさるぅ!」
「腐らねぇよ!つーか臭くねぇし」

水は冷たくて気持ちが良い。妹が仰向けになって全身を水の中に沈めてしまった。僅かに身が動く度水も揺らめく。今更タオルが無いのを思い出したが、この際裸足でも構わないだろう。妹が静かになったのをいい事に俺は少々の間、ぼーっと足を動かして作った水流を眺めていた。

不意に口寂しいというか、手持無沙汰感を覚えた俺は殆ど無意識にポケットを探る。此処で煙草でも出て来れば格好も付くのだがそういう習慣の無い俺が取り出せたのはガムと、いつ入れたのか記憶の無いマジックペンだった。ポイとガムを口に放ると目敏く発見した妹が騒ぎ出す。
ああ、折角静かだったのに。
今度こそ妹の肩を踏んで水の中に転がしてやると激しく水が飛び跳ねた。バタバタと激しく動いた後に起き上がった妹が金切り声を上げる。俺は大きく開いたその口にガムを放り込んでやった。
目を白黒として静まる妹。此れで良い。

店の喧騒が良く聞こえる。そろそろ店に戻った方が良いだろうか。
俺はその場に妹を放置して良いものか少し悩み、どちらにせよ親に声を掛けておくのが一番だろうと立ち上がった。

「兄ちゃん行っちゃうの?」
「や、取り敢えず店見てくる」
「えー、だれもいなくなったらつまらないよ」
「だから聞いてくるっつってんだろ」
「今おみせ見てくるって言ったじゃん」
「店見るついでに母さんに声かけるんだよ。分かれバカ」

ああ、面倒臭い。
そう思いながら立ち上がった俺は妹の顔を見ている内に突然ある衝動に駆られてしまった。
これやったら怒られるだろうな、分かっているのだが衝動なだけあって中々止める事が出来ない。
そして結局俺は妹に目を瞑るよう言い包めてしまい――――マジックを手に取った。

「何なの?」
「良いから、気にするな」

状況を理解する前に、俺はとっとと店の中に戻る。母親が外に出るようだったら速攻で引っ叩かれるだろうとは思った。


『冷えてます』

額の日焼けにそう書き添えたマジックはもしかして油性だったろうか。

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