世界は大いに荒れていた。混乱の坩堝であった。

一人一人がグラグラと煮え立ち、爆発寸前の不安定な頭を持て余していた。
時折小規模な破裂を起こす事でやっとやっとの身を取り繕っていたのである。

しかしそれも長く保つものでは無く、ある日突然マグマの様に噴火するのだろう。



三度の満員と解放を繰り返した薄明るい牢屋の中にヒゥウは居た。

彼は中流貴族生まれの知的学生で、少し前まで知的同好会なる学生革命団の一員であった。
若く熱い血を持つ彼は貧富と身分格差の解消を叫ぶ同好会の中でもより積極的に走り回っていた。
悪を糾弾し新聞記者を味方にも付け、時には強情な保守派と衝突も起こす。
そうして彼は同好会でも重用されるようになっていったのである。

しかしその結果彼は街頭演説の最中に反乱の首謀者として捕らえられたのだ。

三度の満員と解放を繰り返した牢獄は四度目の再開時、速やかな獄囚処理のメリットを学んだ。
それ故にヒゥウは死刑囚となり残り少ない人生を牢屋で過ごしていた。
今のヒゥウにとって死刑は恐ろしいものでは無い。寧ろ刑の重さは彼の功績の大きさを表している。
刑が執行されるその日こそが己にとって晴れ舞台であると固く信じていた。


カツン、カツン、カツン


死刑囚房へ近付く金属の音を耳にしてヒゥウは眉間に皺を寄せた。
彼の信ずる意志には牢獄の不自由も理不尽な苦痛も触れる事が出来ない。しかし唯一、この音の主だけは別であった。

「…やぁ、景気はどうだい。死刑囚君」
「…………」
「相変わらず愛想が無いな。俺はこれでも善良な方だから、看守にしては好かれているつもりなんだけどねぇ」

一言も返さぬヒゥウにただ肩を竦めるばかりの男はこの牢獄で働く看守である。
皮肉の滲んだ薄笑いが常の顔で、他の看守共より多少道徳的で平和の精神を持っていた。
低能でも無く世の道理を知る癖に今の現状に甘んじて政府の言いなりになる彼は、ヒゥウからすればどうしようも無く我慢がならない存在であった。
事無かれ主義と言えば響きは良かろう、世が正常であったならヒゥウにも理解は出来た。

だが不平等な政府の下、苦しみ続けている人々を見てなおヘラヘラと笑っていられるこの男の神経は諸悪の根元よりも質が悪い。

「ほら、先刻の開放時に弁舌を打って看守やら他の監囚やらに殴られていただろう。薬を持って来たから此方へおいでよ」
「…そんな物、要るか」
「それじゃあ置いて行くさ、これは君の為の物なんだから」

看守は薬と包帯と、替えの毛布を牢の前に並べてあっさりと去って行った。


カツン、カツン、カツン


布靴を履く囚人には決して立てられぬ固い足音が聞こえなくなってから漸くヒゥウは溜め息を吐いてくるまっていた毛布から抜け出す。
彼の言った通り、ヒゥウの体は痣と傷で一杯であった。
正義漢を貫く彼はこの様な場所でも革命活動を止めなかった。
結果、多くの看守と一部の囚人から蛇蝎の如く嫌われ、時に言われの無い嫌がらせや暴力を受け、それが無ければ口論の挙句殴られるという日々を送っている。
ただでさえ死刑囚という身の上にあるのにその様な有様であるからヒゥウは常に孤独で彼を助けようという人間は居ない。
今日のそれも、暴力の末ヒゥウが失神してしまうと彼は適当な場所に放置されていた。
尤も此処には医者が居ないので、例えヒゥウの姿を気の毒に思ったとしても放置する他無いのである。
彼を助けようとする手が無いのは仕方が無い。
例えヒゥウの叫ぶ正義に何人かでも同調しているとしても、此処には税金を収める事が出来ずに収容された者やあまりの貧困に盗みを働いて捕まった者が多い。
彼等は風が吹けば飛んでしまう哀れな弱者であった。

ヒゥウの理想は身分格差から生じる貧困を無くし、弱者が発言出来る世界を作る事である。
誰かの自由が誰かの不自由であってはならない。人々は全て平等であるべきだ。
しかし、そんな強い意志とは裏腹に体の彼方此方が痛みを訴える。
堪えようと思っても身動ぎ一つが辛くて儘ならない。
ヒゥウの目先にはあのへらへらとした男が持って来た薬があった。男に要らぬと言った手前、それに手を出す事は憚られた。
懐柔を受ける様で不快であったのもある。
だがそのままで居られそうにも無く、仕方無しにヒゥウは薬に手を伸ばした。


薬のお陰か、次の日のヒゥウの目覚めは良かった。



ヒゥウは与えられた雑事に従する一方、堕落した世界で苦汁を舐める人々が自ら立ち上がれる様、演説や今迄蓄えた知識を用いた学校の真似事、そして正義の為の執筆活動を行っていた。
その中で行動を阻害されたり漠然とした暴力を振るわれる事もあった。
だがそれに屈しない事で己の正しさを証明出来ると信じていた。

今日もまた朝日が昇り囲われたヒゥウの生活が始まって、日が沈んではヒゥウの活動は終わる。終り頃には精神肉体のどちらかがいつも磨滅し草臥れていた。
其処へだらしの無いあの看守がやって来る。入りたての時こそ気まぐれの様であったが最近は毎日の様にヒゥウの元に来る様になっていた。

「また酷い有様だねぇ、君」
「煩い」

そう言っては薬や包帯、時に許されない筈の書物や食品を置き去っていく看守。
ある時には彼が演説を打とうとすると矢鱈に絡んでくる男からヒゥウを庇った事もあった。
道徳的な平和主義でありながら不公平な政府の下に甘んじる、ヒゥウにとっては我慢のならない男ではあるが、こうも庇われる機会が増えれば自然邪険にしていた態度も緩むものである。
そうして気付けば看守と下らない会話をする迄になっていた。

「君は何が悪いと思ってそうももがくのだろうね。
確かに生まれの卑しい者や金の無い者にはそう優しく無い世界だけれども、身分がそこそこ高くて金さえあるなら問題無く暮らしていけるだろうに。
そうで無くともそれなりに要領が良ければ金を貰って伸し上がる事も出来るだろう?」
「その結果が生まれながらに差があり、その差を埋められない世の中だ。
貧困で学が無い、学が無いから良い仕事に就けない、良い仕事に就けないから金が無い、金が無いから子供も学校に行けないという連鎖を断ち切らなければ彼等は永遠に伸し上がる事が出来ない。
またこの仕組みを作り出したのは貴族と呼ばれ贅沢に暮らしている者達だ。
彼等は生まれながらに金を持ち、その金を使って怠惰な暮らしを送っている。
学びたいと思いながら学べない人間が居るというのに、学歴という飾りを得る為だけに学校へ金を払って自分達は遊び暮らす。可笑しいだろう」
「しかしその仕組みが無くなったら君の家も崩壊するのでは無いかい?」
「世の中を変えるのに何が家だ」
「家が無くなったら君も文無しの一員だね」
「今迄生温い地位で受けた恩恵の結果だと思えば」
「それは上等だ」

そんな話をしている時でも看守はニヤニヤとした顔を崩さない。
ヒゥウを馬鹿にしている様でもあった、しかしそうでも無い様にも思えた。



町に残る酒場。
この様な世の中では真っ先に消える様に思えるだろう、しかし此処以外にも煙草屋、カジノ等の娯楽施設は未だに多く残っている。
此れは人間が快楽を欲する生き物である事を表しているのであろうか。
綻びた政治の元で看守という職に就くイィサンは場末の下ひた騒がしさの中で一人安酒の入ったグラスを手の中で弄んでいた。
彼に話しかける者は無い。
彼の職を知り嫌う者も居たが、其れ以上に彼の職に纏わる厄介事を避けたがる者の方が多かった。
そんなイィサンでも近付くのが彼の金を目的にする酒場で働く者達である。
咋に媚び諂った態度の主人が何かにと言いながらイィサンに粗末なクラッカーの欠片を皿に盛って差し出した。
こんなご時世では碌な賄賂も存在しない。
イィサンが受け取り適当な言葉を掛けると主人はヘラヘラと笑ってその場を離れた。
それと入れ替わる様に今度は矢鱈と背の高い女がイィサンの隣に腰を下ろす。

「良い物貰ったわねぇ、あのケチ臭い男からしたら相当なものよ」
「今日はお暇かい、オニイサン」

肩や首を装飾らしい布で誤魔化し作り込んだ声で話してはいるが、その性別が男である事をイィサンは知っている。
揄いを含んだ返事にアーサマゥは眉間に皺を寄せた。

「郷に行っては郷に従え。俺はそう教えた筈だが?」
「酒場で下手物として馬鹿にされる者はそれなりに扱えって事かい。血を分ける兄弟に対しての扱いでは無いねそりゃあ」

一見憂いた表情で氷の様な声を出す兄に顔色も変えずニヤニヤとする弟。
アーサマゥとイィサンは此の地域でも異端の存在である。
しかし誰も其れを非難する事は無い。
疲れ切った世の中に多少の異端があったとしてどうして咎める余裕があるであろう。
そもそも長男である筈のアーサマゥは欠損の一つも無いどころか美貌の持ち主である。
その顔で貴族の女性を誑かし高い身分へ伸し上がる事も出来たであろう。
だのに男らしい立派な体躯に女の衣類を纏って自分より劣った動物性の男に媚を売り、女の無邪気な罵倒を笑って受け止めるのである。
自分を優位にしてくれる存在をどうして咎める必要があるだろうか。
イィサンにしても現在就いている仕事こそ其れなりの給金を貰い身分の高い者に近付く事が出来るものである。
しかし此の男には野心も向上心も無く、手に入れた金は地域の中で平然とばら撒き、時に仕入れた情報すらをも垂れ流す。
少しの利が得たければ此の男に人間らしく親切にするだけで良い。
利益を齎す者を態々否定する意味は無い。

「最近其方はどうなの?」

再び作り声を出し首を傾げたアーサマゥにイィサンは返事をしなかった。

「お気に入りが居るって専らの噂よ」
「…噂は馬より足が速い、と」
「そりゃあ、問題が起きれば取り敢えず捕まえて、後から無関係の人間を放す、何てやっていれば中の情報も漏れ易くなるに決まっているでしょう」
「そうは言っても、たかが一看守に規則を変える事は出来ないからなぁ。精々無関係の人間が少しでも早く開放される様にする位の事しか出来ないね」
「お気に入りサンはどうなの?」
「死刑囚だよ」
「そう」
「若くて真っ直ぐだけどその分、中で問題も良く起こす」
「……そう」
「外では知的同好会で活動していたらしい」
「ああ、あの。下流中位以上の学生が主になっているって言う…確か神父も混ざっているとか」

グラスの中で残り少ない酒をくるくると回すイィサンの腕をアーサマゥがそっと掴む。

「どうする気なの」
「どうなるものかね」
「覚悟は」
「どうだろうね」
「過去は覚えているわよね」
「忘れる訳が無いだろう」

ニヤニヤと笑いながらも何故か疲れた表情を浮かべるイィサンをアーサマゥは暫く厳しい目で見つめ、ふいと席を去って行った。



カツン、カツン、カツン
カツン、カツン、カツン、カツン

複数の固い足音が響いている。

今日という日を可能な限り活用したヒゥウは疲労と怪我による痛みを自尊心のみに寄って慰めていた。
暴力とは愚かで野蛮な行為である。
自分の意思を持たないか言葉にし他人を説得する事も出来ない様な人間の浅はかな行為である以上、其れを取り立てる価値は無い。
ヒゥウの言葉に対してただの暴力でしか反論出来ないというのはヒゥウの正しさを証明しているのである。
だが、それでも傷付いた肉体は悲鳴を上げる。
いっそ人間が生物としての本能から完全に離脱出来るようになればどれ程良いであろう、とそんな考えがヒゥウの頭を過ぎった。

カツン、カツン、カツン、カッ。

足音がヒゥウの牢の前で止まる。
彼は最近生まれた流れからそれがニヤニヤした看守のものであると理解しかけ、しかしそれが複数であった事を思い出し顔を上げるのを堪えた。

「二八号室死刑囚、起きろ」

厳めしく傲慢な声にヒゥウが顔を上げれば、当たり前の様に立ち上がる事を強要される。
渋る体を無理やりに持ち上げると看守としての地位が高かろう傲慢な声の持ち主の後ろにはあの看守が立っていた。
薄笑いを浮かべながら何処か普段と様子の違う彼の背後には全てを失った様に無表情な神父がついている。

「刑の執行日が決定した。今から七日後になる。必要であれば乞うて神に祈りを捧げても良い」

それだけ言うと傲慢な声とニヤニヤ笑う看守は去った。
無表情な神父は暫くヒゥウを見ていたが、彼に神が必要無いと判断すると「必要になれば声をかけなさい」とだけ大して口も開かずに呟いて前の二人を追って行った。

「……」

今の彼にすればとうとう来た、それだけの事であった。
死刑囚というレッテルが貼られ日に日に囚人が増える状況では何時そうなっても可笑しくは無かった。
それに加え、彼は暴力を受けながらこの中で過ごして来た。
碌な医療も無い環境では些細な怪我からでも命を落として不自然は無かったのである。
否、革命運動に身を捧げる者達には暴動や衝突で命を落としたり、強襲されて殺された者も居る。
そもそもヒゥウが生きて此処に来れたのは何かしらの運命か奇跡によってのものなのだ。

彼は生かされた。この事実は、果たして無駄にして良いものだろうか。
彼は存在の重さが故に殺される。この事実は、果たして受け流して良いものだろうか。


期限の付いた人生を深く考えヒゥウは夜を明かした。

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