朝日が昇って彼が出した結論は、彼の正義を強く貫徹する事であった。


僅かな隙間を縫っての執筆により熱心な演説、惜しみ無い学の解放。
そして今迄は耐えて来た暴力や嘲笑に彼は強い言葉で反攻した。
止まらぬ無意味な暴力には時に暴力すら返した。
微々たる時間の制止すら耐えるべきでは無いと悟ったのだ。

一層過剰に熱烈になったヒゥウの活動は彼に迫る死の影と相俟って、泥濘に己から留まる人々を自然と退けた。
反対に、少しでも迷いを感じる人々を引き寄せた。
僅かながらにも牢獄の識字率が上がったのはヒゥウの活動の功績であると言えよう。

あの薄笑いの看守は彼に近寄らなくなっていた。
退けられた人々と同じ種類であったのも理由であろう、もしかしたら死刑宣告の場に居合わせてしまった事から離れている可能性もある。
しかしヒゥウが怪我をした日には薬が、執筆用の紙が無くなった日にはその補充が彼の見ない間に牢の中へそっと置かれているのであった。



五日目を過ぎる頃には最早ヒゥウに余計な手出しをする者は無くなっていた。

命が燃える代わりにか、彼の走らせるペンは止まる事無く滑らかに文字を書き続け頭の中は益々冴え渡った。
正義を叫ぶ言葉は刃の様に鋭く、此れが完成し世に出回れば不正な物全ての息を止める事が出来るだろう、とヒゥウは自信を持って言えた。
未だ紙に乗らぬ文字は書き上げて来た長さに比べれば僅かで、確実に完成させる事が出来るであろう。
出来上がった物はあの無表情な神父に、祈りと共に預ければ良い。
死せる者へ温情が与えられるのはこの世界に辛うじて残された美点である。

それとも、とヒゥウはふと思いを巡らせる。
姿を見せなくなった看守に此れを渡したらどうであろうか。
あの男は性質の悪い善人であるが根っからの悪人では無い。
ヒゥウの文章を読めば彼も平等な世界への理想を持つ事が出来るのでは無かろうか。
日和見な人間は別の視点から見れば臆病な人間なのである。
己の持つ理知に誇りを抱き正義と平等を愛し、世界に希望を見出されば心が揺らぐ可能性はある。
そうして一人でも多くの人間が此方に寄れば他の日和見主義も倣い、世界は良い方へと傾くであろう。
ヒゥウの死にも確かな意味が生まれる筈である。

「死刑囚君」

突然声を掛けられヒゥウは慌てて牢の外を向く。
其処には薄笑いを浮かべている筈の看守が笑いもせず静かに立っていた。
普段なら固いあの足音が嫌でも耳につき、その存在に気付かぬ訳が無かった。
ヒゥウが余程集中していたか、看守が足音を殺していたかのどちらかである。
今の場合は後者のようである。

「何だ、突然」
「君はとうとう本当の死刑囚になったね」
「此処に来た時からそれは変わらない筈だ」
「それはそうだけれど。明後日に死を迎える人間の顔じゃあ無いな」

様子の変わらぬヒゥウに、看守は漸く笑いを浮かべた。
しかしその顔はヒゥウの知る看守の表情では無かった。

「俺はね、これでも善良な方なんだよ。恐らく君や周りの知る以上に。だから此の状態に耐えられないのも本当なんだよ」

見慣れぬ様子の看守はヒゥウに話しかけていたが、それは独り言に近く意味深で感情ばかりに溢れていた。
青褪めて見える顔色はあまり正常とも思われず、ヒゥウは看守に一歩二歩と近付いた。
するとカシャン、と音がしてヒゥウはついその方向へ視線を向ける。
其処には大きな鍵束が落ちていた。

「……」
「俺はどうなるか知らない。全ては正義の下、意志の儘にだ」

看守はそのままフラフラと牢を離れて来た道を戻って行った。


鍵束はヒゥウが手を伸ばせば届く位置にある。
それは熱湯の中で突然浴びせられた冷水の様な存在感であった。
落ちるそれに手を出す事は、本来ならば大罪である。
だがそのまま其処に置いておく事も出来ないず、結局ヒゥウはそれを自分の下へと引き寄せた。

脱獄は逃げでしか無い。
正義に殉ずる事がヒゥウの意志であった筈である。

状況だけを考えるにしてもこの環境では囲いの一つを突破した所で直ぐに見付かってしまうであろう。
外側からの手助けがあれば別だが、この国では思想犯に面会を許していない。
暴力的に引っ張られて以降、一度も顔を合わせていない仲間と微細なやり取り等出来る訳も無い。
加えて刑の執行が世間に知らされるのは当日の朝である。

実に無意味な行為、そう無意味な行為でしか無いのだ、それは。


思考を漂うあまり睡眠を忘れたヒゥウは図らずも月が沈み、朝日が昇って行く姿を見詰める事になった。
次に見るのは彼にとって最後の朝日になる。



鍵の紛失等すぐに発覚するだろう、そう思っていたが何時まで経っても牢獄は静かな儘であった。
弁解の出来ない状況にあるヒゥウとしては、己が身に不当な暴力が振ってこない事を安堵するのも事実である。
残り時間の限られる今、些事に係っている暇は無い。
死刑囚への恩赦として囚人の義務からも解放された今、彼がすべきは最早ペンを滑らせる事だけだ。

富が集中し貧困が生まれる社会。
貧困が貧困を招く欠陥したシステム。
自らの努力で栄光を勝ち取れる理想。
弱者を助けるという当たり前の道徳。
現実と欠陥と理想を繋ぐ道徳的精神の発展への提案。
これを阻害する悪の正体。
正義とは?愛とは?
そして人とは?
神は?

白紙を埋めれば埋める程に気付くものに出会い、ヒゥウは何度も新しい紙を用意した。
一枚、また一枚と積み重ねる紙。

ヒゥウは段々と圧迫感を覚え始めた。
それが何なのか理解せぬ儘にペンを滑らせていたが、紙を置く度にそれが強くなりとうとうそれを自覚し原因を考えずには居られなくなった。
此れ程迄にペンが進む中でどうして苦痛を感じる事があるだろうか。
獄中ですらヒゥウの行動に価値を見る者も出始めている。文字を学び新しい道が開けた者も居る。
正義への殉死を恐れる気持ちも存在しない。
彼の道は開かれた筈である。
なのに何故こうも息苦しい?

特別に彼の元へ運ばれてきた昼食は、彼の好物ばかりであった。
温かいスープにありふれたパン、燻製の魚とハーブが練り込まれたバター。二口で終わるだろうワイン。
壁の中では一度も見る事が無かった、久し振りの食事である。
ヒゥウの生まれた家ではこの程度の食事が普通であった。
彼は家の外で初めてこの食事が豪勢な類に入る事を知ったのだ。
ヒゥウより貧しい人々はこの牢獄と同じ様に固いパンを冷えたスープに浸すのが当たり前の食卓であった。

罪を犯した者と努力し汗水垂らして働く者の食事が同じであるのは不自然である。
ヒゥウはその時から強い正義観に駆られ走り出したのであった。

やはり己の行為に省みる所は無い。
そう思うのに、ヒゥウは昼食をワインとスープで流し込まなければ飲み込めなかった。


無理やりに食事を終え再び机に向かうと、今度はペンがピタリと止まってしまった。
頭には新たな真理が渦巻いており、時間は無い。
だのに出口を塞がれた様にペン先に言葉が乗らないのである。
苛立ちからヒゥウは頭を掻き乱し、首筋を皮膚が剥ける程に擦った。
インクが紙に垂れ、無意味に汚れる。
短く噛み千切られ白い肉を見せているというのに、更に机を叩き続けたせいで左手の爪からは血が滲み始めていた。
役目を放棄するペンを投げ捨てれば壁に当たって固い音を立てる。
空いた右手の肉を噛みしめてヒゥウは後ろにひっくり返った。

薄暗い牢に漂う悪臭が鼻を突く。
右手の彼方此方に歯形をつけて、ヒゥウは己から抜け落ちていた現実を見付けてしまった。
どれだけ考え、どれだけ書いた所でまたどんどんと沸いて来るに違いない。
世界は広く、真理は多く、ヒゥウの頭の中身だけですら十数年が蓄積されている。
全てを書き記すのは不可能で、厳選するには時間が足りなかった。

ヒゥウは彼の正義を主張出来れば良い。
しかしそれだけで収まる事を命の期限を切られた彼は認められなかったのである。

ヒゥウは己の命を惜しみ始めていた。
もしあと一日でも長く生きられたならもう少し良い文章を残せるかも知れない、しかしそれは叶わない。
もし今日この牢から出られていたならこの中だけであっても勉学を広める事が出来たかも知れない、しかしそれは叶わない。
悔いれば悔いただけ時間は失われる。
立ち止まる事は出来ない。
再びペンを取るも、書くもの全てが文字の羅列にしか見えない。
鋭い刃物も研ぎ澄まし目標へ突き立て無ければ治療にならぬ。

「………」

言葉無く唇を震わせたヒゥウは、有り得ざる力でペンをとうとう圧し折った。



握り潰した紙の枚数はどれ程になるだろう。
それでもヒゥウは折れたペンを握り、何時間も紙に向かい続けた。
どうにか形を取って書き散らされた紙も床一面に広がっていた。

日は落ち、月は上り、また日が表れるのも遠くは無い。

食事を与えられていたにも関わらず何処か憔れた面持ちでヒゥウはペンを置いた。
もう此れ以上は良いだろう、少なくともそれ位には記す事が出来た。
ヒゥウは紙を纏めて体裁を繕おうと、広がる一枚一枚を順番立てて拾い上げた。

紙の下から不意に、重みのある物体が飛び出た。
それは看守が落として行った鍵束であった。

ヒゥウは再び冷水を浴びせられた様な気持ちになった。

それは無意味な事だと、理解している。
しかし、しかし、だがもしも、もしかしたら、この鍵束が失われても騒ぎが起きなかった様にヒゥウが居なくなっても気付かないのでは無いか。
鍵が重要なのは其処に入れておくべきものがあるからで、逆に言えば入っている必要が無いなら鍵は要らないのだ。
此処の鍵が不必要であるなら、ヒゥウが留まる必要も無かったのではないか。

そう、ヒゥウは正義を叫びこそすれ悪に染まった覚えは無いのだ。
本来彼はこんな所に居るべきでは無い。
世界が堕落し、貧しき民が疲弊する世の中を正しくしようと正義漢の群れに身を置いていた筈なのだ。

ヒゥウはこんな所に閉じ込められて居なければ、貧しい人々に正しい知識を与えられただろう。
そうすれば、その知識を利用して人々は貧困から脱出したに違いない。
ただ肥え太るばかりで向上心も無く、日々を豪勢な食と衣服と男女の結びに費やす怠惰な貴族達を篩い落とす事が出来た筈である。

勿論彼は彼の正義を主張すべきである。
だが此処で死んで正義を主張する事が、果たして人々の向上に繋がるだろうか。
彼の遺す文章が焼かれない保証は何処にも無い。


僅かながら、空は明るみ始めている。
鍵束に連なる鍵の数は多い。
彼が遺す筈の文章は未だ紙が重なるばかりで意味を拾う事は難しい。

命は僅か。
殺される。
死ぬ。
しぬ。

ぶつん、と右手に残った爪が全て噛み千切られた。

「あ、あ、あ…」

血の滲む両手の指が咄嗟に握ったのは、鍵束であった。



ヒゥウは一心不乱に震える手で鍵を外そうと足掻いた。
細い、手首が通って精一杯の隙間から無理に腕を出し服が切れるのも構わずに鍵を差し、回し、抜き、また差すを繰り返す。

不自由な体勢で幾度も鍵を取り落としそうになった。
同じ鍵を差しそうにもなった。
誰かに見付かるのでは無いかと今迄に無く怯えた。
道を見失ってしまった様な恐怖感に脳髄迄支配された。

早く、一刻も早く鍵を外さなければ!

そうして残る鍵が減り、最後の一本となり、狂喜しながらそれを差し。


がちん、と。


開かない扉に腕を引き抜く事も忘れて呆然と格子に凭れれば、太陽はしっかりと朝を告げていた。



「やぁ。死刑囚君。景気はどうだい?」
「………?」

充血しギラギラと光る目を声の方へと向ければ、あの、ニヤニヤ笑いが癇に障る、頭の悪くない、日和見な、ヒゥウに鍵を渡した筈の看守が立っている。
看守はヘラヘラと笑いながら扉に刺さった儘の鍵を引き抜き鍵束を腰へと戻した。

「鍵を使ったんだね。あれだけ紙とペンを消費して、君は主張を完成させられなかったんだね。実に残念だ」
「……?」

ヒゥウの鬱血した腕を労わりながら牢の中へ戻しながら看守は猶も笑う。

「うん。残念な事だけれども、この束に死刑囚君を解き放つ鍵は無かったんだ。少し考えれば、一看守が死刑囚が収まる牢の鍵を持って居られる訳が無い事位分かるだろう」
「は…」

看守は引き攣れた息を吐くヒゥウの前に立ち、視線の高さを合わせて更に言う。

「君は、死に怯えて混乱し、主義を失い、主張も碌に出来なかった。君に語れる正義は無いよ」
「お…おのれぇ!!おのれ!!」

格子の存在を忘れて看守に飛びかかろうと、ヒゥウはぶつかり転がり、それでも看守に罵詈雑言を吐き付けた。

「さようなら、死刑囚君。もうそろそろ時間だ」

看守は背を向け来た道を戻り始める。
ヒゥウは看守を呪い言葉にならぬ言葉を泡とともに口から飛ばし、牢の中で暴れ続けた。

「ああ、そうだ最後に。俺の名前はイィサンって言うんだよ、死刑囚君」

カツン、カツン、カツン
カツン、カツン、カツン、カツン

一つの靴音が遠ざかり、複数の靴音が近付いて行く。

暴れる死刑囚に驚き、哀れみ、それでも刑は始まるのだろう。


「イィサン!お前を絶対に許さない!!死後も永遠に呪ってやる!」

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