「心臓に悪い学校」


 私は其処を歩いていた。

其処、と言うのは私が通う、学校と呼ばれる教育施設の事である。

やや古めかしく良く見ると薄汚れたコンクリートには所々皹が入っている、そんな所が他の比べた時の特徴にはなったかも知れない。
私が其処を歩いていたのは、可笑しな事に夜にも近い暗い夕方の時間であった。
何故そんな時間なのか、その根本の所は良く分からない。しかし学校等に通う状況に於いては何故と思い問う事の無意味がまかり通っていたのだから、気に留めるのも今更なのだろう。現に私はその瞬間迄疑問を抱かなかったのだから。

私はどうにも重たい頭を抱えて、薄紅に染まる廊下を歩いていた。
頭が重たいのはそれまで教室で行われていた数学の問題が原因であるとはっきりしている。 本来、私達は算数と呼ぶべき数字の勉強を行うべきである筈なのに、どういう訳でか今日は高度な数学と呼ぶべき学問に、まさに勉めるよう強いられていたのだ。
やれと言われた所で、理解出来ないものが突然理解出来る道理は無い。しかしそれを大人が強いる以上、子供には逃げようが無いのである。脳味噌の皺を無理にこじ開ける様にして見知らぬものを先ずは見知ったものにし、知っている事柄を引っ張り出してはそれに適合しないか比べ、どうにかしてそれを達成しなければならないという強迫概念に背を押され続けて、自分でも正しいのか正しく無いのか判断もつかない怪しい数字を只管それらしく書き連ねて紙の白い部分を汚した。しかし汚しても汚しても数字は後から後から湧いて出る。机の上に広がる問題用紙を端から端まで必死になって埋めてみれば、もう一枚が見えてくる。これだけやれば終わるだろうと思えるのに終了を知らせる鐘は聞こえてこない。ガリガリと鉛筆芯の紙に擦れる音と人の身動ぎ、僅かに机や椅子がずれる音が静かな部屋の中に聞こえる。

元来、私は学校という物が嫌いであった。一日を時計の針で刻む様な行いは醜く思えたし、狭い教室から出られない事実は強迫めいて受け止められた。知らない事を知る楽しさはあってもそれを試される意味は不明としか言いようが無かったし、それで悪い点を取った時に何故嫌な顔をされるのか理解出来なかった。先生という名の知らない大人は見た目にこそ好き嫌いを言えたが、それが性格という中身に一致する訳では無いし、物の教え方迄言及すれば己の全てを以て慕う事の不可能さを知るばかりである。友人には興味を持てる者も居たがそうでは無い者も多く、美醜に煩い面を持つ己には身嗜みの悪さや生き物に残酷を振るう無邪気さが気味悪く思える時もあった。ただ、私もまた子供であったが為に子供の幼さに馴染む事が出来た為に学校に己を繋ぐ事が出来ていた。
どうにか与えられる紙の全てを文字で埋めた私は、何かしらの許可を教師から得て教室の外へ解放されたのである。教室の中には未だ私以外の何人かが閉じ込められている。次々と並んだ数字には苦痛と恐怖しか感じられず、もしもこれが永遠に続くとしたら世界はただの地獄であっただろう、私にとってはそれ程のものであった教室内の出来事は他の子供にとってはどうだったのであろうか。
私よりも数字が苦手な者も居た筈であるし、私より頭が良い者もクラスには居た筈である。私より先生というものに取り入るのが上手い者も居たし、愚図で鼻水もろくすっぽ拭えない様などうしようも無い者も居た。
教室の中を眺める事は出来なかったので本当の事は分からないが、私が外に出られたという事はきっと頭か要領の良い者は同じ様になっているのだろう。あそこに残るのはきっと愚かな者だけだ。

私は己が愚かな者に当て嵌まらなかった事に安堵と一抹の不安を感じ、この後はどうすべきなのかと悩みながら歩いた。
廊下は無人である。電気が通っていないかのようで教室から漏れる蛍光灯の明かりと比べれば薄暗くて気味が悪い。あまり歩き回らない方が良いのだろうかとも思えるが、だからと言って何の指示があるでも無い以上其処に立って居ても仕方が無い。
明暗以上に何をどうすれば正しいのか分からぬ不安感が強く私を苛む。私はそういう時に大抵トイレに逃げ込んだ。其処はどんな時に一人で居ても許される空間で、神経性の腹痛を起こし易い体質からしても重要なスペースであった。
子供が大量に集まっているのだから当然と言えば当然だが、学校内の各所にトイレは存在していた。長方形の棟の左右寄り、男女に分かれたスペースが一つずつ。個室は女子四つ、男子三つが基本であった。三階建ての建物なのだから教室棟だけで性別毎に六つ、個室を数えれば二十以上存在するそれを目指して歩き始めた私は、ふいに空を見上げた。薄紅色をした筈の其処は色を濃くして深紅に染まると思いきや、夜の紫と混じり合って大変に気持ち悪い色を成していた。

 すぐに近付く筈のトイレは何故か歩いても歩いても見付ける事が出来なかった。空の色が原因なのか歩けば歩く程に私は其処が何処なのか分からなくなる様な漠然とした可笑しげな感覚に捕らわれた。
視覚的には覚えのある景色で、建築物なのである。違った所等一つも無い。試しに階段を下っても、見覚えのあるものしか存在せず、階段の踊り場にある窓から外を覗いてすら見知った家々しか並んでいない。しかし何かが可笑しい。何かが変だ。
心臓が脈の打ち方を変えてしまった様な、目の作りが変化してしまった様な、どうとも言え無い感覚が振り払えぬままに階段を下り、下級生の教室前を歩く。 其処もやはり廊下は暗く教室内からだけ明かりが漏れている。己ばかりで無くまた何故かぽっと思い付く顔の無い同級生だけで無く、下級生も同じ様な状態に置かれているのだと知り、私はほんの僅かにだが安堵した。学校内で起きている事は自分より幼い人間が耐えられる程度の事なのだ。
そう思いながら歩き続けて、私は漸く目的地であるトイレを見付けた。
此処で少しだけ時間を過ごせば良い。その間に鐘が鳴ってくれれば一番良いが、そうで無かったとしても多少時間が過ぎれば教室から出て来る者に会う可能性はあるだろうし、いっそ体調不良者として保健室へ行っても良いだろう。実際に私は幾らでも腹痛を味わう事が出来る性格なのだから。


 何だか気が楽になって、私は見付けたトイレに真っ直ぐ向かおうとした。そして、肩を叩かれた。
あまりに突然で驚いたが、同時にこれだけ彷徨い解決策を思い付いた今になって何故呼び止めようと言うのか、そんな不快感も覚えて私はその手を払うように握り、そのまま振り返った。



私の手の中には、手だけがあった。




 くるくると世界が回り出す。

白と黒と、紺色と、見覚えがあるのに違和感しか無い景色。
手の中の手。

くるくる、くるくる、くるくる。

私を軸に世界は回り続けた。




そして暗転。

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